木馬の手

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6.  春雨スープ事件の数日後。  織絵たちは、また名倉グループのビルにいた。  もうすぐ林田がここにやってきて、ヒアリングが始まる予定だった。  ただし、今日はコンサルティングの応接室でなく、同じビルにある名倉ホールディングズの会議室だ。こちらしか、予約が取れなかったのだそうだ。  そのせいもあってか、名倉ホールディングズCEOの椎名がやってきて、ミナカナとおしゃべりを楽しんでいる。さっきまでは立原もいたのだが、急に「ちょっと」とだけ言って、どこかへ行ってしまった。  赤城部長へのヒアリングの日から数えると、二週間が経っていた。二週間の間、立原は赤城部長が語ったことの確認と、林田についての調査で忙しかったようだ。結果についての詳しい話を、織絵はまだ聞いていない。 「赤城部長の言う通りなのかも、ですね」と、ミナカナが言う。 「何が、でしょう?」と、椎名が穏やかに訊き返す。  言葉を交わしているのは、ミナカナと椎名の二人だけだ。織絵は黙っている。話題になっているのは、前回の赤城へのヒアリングのことだった。その場にいなかった椎名も、あとで文字に起こしたものに目を通したのだそうだ。 「差別なのか、という話です」ミナカナは真剣な表情だ。「震災で家族を失った人や、事故で顔の印象が変わってしまった人を疑うことは、一種の差別なんでしょうか?」 「うーん、疑われた側からすれば、そう思えるのも仕方ないですけど、でも、それは付随的な理由で、彼を疑った理由の核心じゃありません」 「そうなんですか?」 「ええ。何よりも、彼がエルミナコム時代の人脈を自分で絶ってしまったことが、最も引っ掛かった点だったんですよ。それは日本人のビジネス・スタイルとしては、驚くほど稀なことなんです。特に彼のように巨大な会社で育った人間ならね。テルさんだって、昔を知る家族がいない、ってだけで、疑いを掛けたりしません」  テルさん、というのは、椎名が立原を呼ぶときの呼び名だった。立原輝の下の名前だ。ちなみに、立原は椎名のことを「ハル」と呼んでいる。これも椎名春彦の下の名前『ハルヒコ』から取っているのだろう。  今回の調査の件で、織絵もミナカナも頻繁に名倉グループを訪れているので、四人はかなり親密になっていた。そのせいか、織絵とミナカナの前では、二人は『ハル』『テルさん』と呼び合っている。  現在の社会的な地位からいえば、グループの頂点にいる椎名は、傘下の会社の従業員でしかない立原より、ずっと上であるはずだ。だが、椎名は必ず相手を『さん』づけで呼び、逆に立原は常に呼び捨てだ。二人の関係は、小学校の出会い以来、ずっと椎名が立原に仕える形のままなのだろう。 「うーん、理屈は、そうなんでしょうけど。でも、なんか赤城さんがかわいそうで。織絵先輩はどう思います?」 「確かにね」振られて織絵が口を開いた。「それは否定しないよ。ただ、それでも、社長を守るためには、仕方ないの」  ミナカナは首を傾げて、織絵を見る。  なんだ、急にニヤニヤして。 「織江先輩、水谷社長に惚れてたりします?」 「はぁ?」 「社長が好きですよね、男として」 「はぁ?」 「だって、なんか、思い入れが、半端ないっていうか、ただごとじゃない、っていうか」 「あんた、いきなり何を言い出すのよ」 「えへへ」  ミナカナはニヤニヤ笑いを顔いっぱいに広げる。まったく、よけいなことばかり考えやがる。こんなときに、ドヤ顔するかね。しかも、椎名さんまで笑い出すし。 「違わないですよね」 「違うよ」  恋愛感情とは、本当に違うんだ。そういう〈好き〉と、あの人を守りたい気持ちは、似ているようで、まるで別物なんだよ。まあ、説明しても、わかってもらえないから、あえて言わないけど。 「あんた、変な方向に妄想力あり過ぎなのよ。もう少し、理性的であってほしいわ」 「妄想なんてしません。スタートレックのミスター・スポックみたいに理性的です」 「ミスター・スポック」  そういえば、こいつ最近、衛星放送の海外SFドラマにハマってたな。 「ワレワレハウチュウジンダ」  調子に乗って、喉を小刻みに叩きながら、昭和の宇宙人セリフを吐く。すでにスタートレック関係なくなってるし。あと、恋愛話どこ行った。 「オマエタチヲ・・・ごほごほげへへへ」  うっかり、強く叩き過ぎたらしい。  自爆したミナカナはほっといて、織絵は椎名に話しかける。 「それにしても、立原さん、ずいぶん熱心に調査してくださっていますよね」 「ええ」と、椎名が頷く。「のめり込んでいますね。彼の個人的な事情もあって」 「個人的、というと?」 「実は例の教団の教祖は、信者の少女たちと性交渉を持っている、という確度の高い情報が得られたんです」 「少女」 「そう、十代前半の女性信者です。それも複数、というか、かなりの人数のようです。子供も産ませているらしい。まあいろいろ理由はつけているようですが、どう考えても教祖の性癖でしょう。それを知って、テルさんはいよいよ教団への敵愾心を燃やしている」 「ああ、そうか」と、織絵は納得する。「あの人は、自分の経験があるから、少年少女への性的虐待が許せないんですね」 「そうなんです。あまり表には出しませんが、心の底では激しく憎んでいます。それで、この件も、採算度外視で調査に熱を入れてるんです」 「ラッキー、なのかな? 私たちにとっては」  ミナカナは気楽なことを言う。 「そんな言い方しないの。虐待されている女の子たちのことも、考えなさいよ」  織絵が叱ると、すみません、とミナカナは素直に萎れる。  そこへ、当の立原が帰ってきた。手に雑誌を持っている。 「スキャンしたものより、元の雑誌があった方がいいか、と思いついたので」  そう言って、テーブルの上に雑誌を広げる。いつか、椎名が二人に見せた、林田の写真だった。反社会勢力の構成員と一緒に写っている奴だ。 「この二人が暴行事件を起こしたんでしたっけ?」  ミナカナが確認する。 「そう、この記事にある通り」  立原が説明し始めたとき、ノックの音がした。  立原は慌ててノートパソコンをケースから取り出し、代わりに雑誌をその下に隠した。 「失礼します」  と言って、今どき珍しい事務員の制服で豊満な体を包んだ女性が、開いたドアから上半身を覗かせた。厚化粧の上に、香水の匂いが濃過ぎるようだ。  立原は表情を消してしまっている。どうやら妖艶な女性が苦手らしい。それも少年期に受けた性的虐待のせいなのだろう、と織絵は思っている。反面、小学生くらいの少女だと、意外に優しげな微笑を浮かべることも多い。別にロリコン、という感じではなく、それが本来の彼なのだろう。 「お連れしました」  と告げる女性の後ろに、林田がいた。一応、ジャケットは羽織っているが、下は汚れが目立つ白いTシャツだ。 「じゃ、またあとで」  椎名が三人に会釈して出てゆき、入れ替わりに林田が入ってきた。 「やあ、どうも」  誰にともなく挨拶をして、林田は勝手に腰を下ろした。 「さて、なんの用?」  立原に向かって、傲慢に言い放つ。 「人事関連のヒアリング、と事前にお伝えしたと思いますが」  立原が答える。 「うん、で、どんな質問なのかな?」  林田はあくまでも、無礼な態度を崩さない。 「あなたは、本当に、林田満也さんなのですか?」 「はぁ?」 「あなたは、本当に、林田満也さんなのですか?」  立原は質問を繰り返す。 「そうに決まっている」 「証明してください」  林田は困惑したようだが、意外に素直に免許証を取り出した。 「この通り」 「どうやって作りました?」  突き出された免許証をろくに見もせず、立原は言った。 「普通に、教習所に通った」 「リアルに? それともデータだけ?」 「意味がわからない」 「警察のデータを改ざんしていませんか?」  林田は笑い出した。 「残念ながら違うみたいだ。それだけのスキルが僕にあれば良かったけどね」 「でも、政治家の不正な金の流れは、ネットに晒した」  林田の表情が固まった。 「何を言ってる?」 「この二人を利用しましたね」  立原はケースから雑誌を取り出し、林田と暴行事件犯人の写っているページを開いた。 「彼らの話から、あなたは一人のSEが麻薬に溺れていることを知った。そして、そのSEは某政治家の事務所に財務ソフトを導入したチームの一員だった。麻薬はかなり依存性の高いもので、誰かが薬代を出すと言うと、彼は絶対服従を誓うはずだ、と言う。それを聞いたあなたは、彼に接触し、財務ソフトが動いているサーバーの、管理者パスワードを聞き出した」  織絵は困惑した。そんな話は聞いていないのだ。  林田は、無言だ。 「もちろん、それだけでは情報は盗み出せない。しかし、あなたはプログラム作成だけでなく、ネットワーク・インフラの知識まで豊富に備えたフルスタック・エンジニアだ。あなたは闇で売り買いされているセキュリティ機器のバックドア情報を買い、外からシステムに侵入した」  立原は、ふっ、と笑ってあとを続けた。 「ネットワーク・セキュリティのためのハードウェアが、ここでは侵入の足がかりになったんだから、皮肉だね。まあ、脆弱性の存在を知りながら、ファームウェアのアップデートをサボっていた担当者が悪いんだが」 「で」と織絵は、立原と林田を交互に見ながら、質問する。「林田くんは何をしたの?」 「申し訳ない」と立原は頭を下げる。「話が大き過ぎて、確信が持てるまで、西野さんにも話せなかった。確実な証拠が集まったのは、昨夜遅くだったんです」 「だから、彼は何をしたの?」 「林田さんは、そのサーバーに細工をして、あるブラック企業から政治家への資金の流入が、インターネット上に晒される状態にした」 「え、まさかあの事件の」  ミナカナが驚く。 「そう、あの政党の看板だった政治家を失脚させたスキャンダルは、彼が仕組んだことなんだ。内部の人間のミスなんかじゃなく、ね」 「証拠は? 確実な証拠とはなんのことだ」  林田の声が、凶暴性を帯びたようだ。 「われわれの弁護士が、拘置所にいるこの二人に接触して、証言を得た」  立原は、雑誌を指差す。 「あんなチンピラの言うことを信じるのか。どうせ、その弁護士が『指示通りにすれば助けてやる』とかなんとか、誘惑したんだろう。おまえたちが言わせただけだ」 「政治家事務所のサーバーに侵入したときに踏み台として使われた、ある研究機関のシステムを、われわれは特定した。そこから辿って、そのシステムに接続できた特殊な回線の契約者が、あなたであることも確認した。それが昨夜ようやく手に入った確証だった」  林田は、無言で立原を睨む。 「あと、麻薬に溺れたSEは、数日前に、われわれが保護して、然るべき病院に入れたよ。依存症治療に強い病院だ。まだ証言は取れていないが、完全に廃人になったわけでもないようだ。リハビリが進めば、決定的な証言が得られるだろうね」  パタン、と音を立てて、立原は雑誌を閉じた。 「まあ、政治家の悪を暴くのは悪いことじゃない。でも、あなた自身も、その政治家の対立候補を支援する団体から、かなりの金をもらったようだね? あなたから接近して金を要求したのは、薬代とバックドア情報代が必要だったから、ということなのかな?」  林田は、初めて焦った表情になった。 「それに、一人の優秀なSEが麻薬中毒になったのを助けようともせず、逆に利用したんだから、言い訳は効かない」  立原は、皮肉な笑みを浮かべる。 「さて、話を元に戻しましょう。あなたは林田満也さんですか?」  林田は、黙って立原を睨んでいたが、少し経って、ようやく口を開いた。 「俺を、どうしようって言うんだ」 「それは、あなたが真実を話してくれるかどうかによります」 「偽物だと言えばいいのか?」 「もし、偽物なら」  林田は小さくため息をつく。 「本物だ。間違いなく、本物の林田だよ。偽名なんかじゃない」 「〈真の神の文字〉という団体を知っていますか?」 「なんだそれは?」 「さっきの写真の二人が、ときどき、その団体の手先になって、小銭を稼いでいたようですが」 「いや、全然知らない。なんでそんなことを訊く?」  林田は、不審そうな顔になる。  メムの過去については、会社の中でも、赤城のような幹部か、社長に親しいものしか知らない。創業時からの社員である織絵は教えてもらっていたが、ミナカナはこの調査を担当するまでは知らなかったはずだ。だから、林田の表情は不自然ではない。とはいえ、それがリアルな感情の表れなのか、それとも高い演技力の証明なのか、はわからない。 「理由は、〈真の神の文字〉の関係者が、偽名を使って、メディア・シンバイオシスに入り込んでいる、という、信憑性の高い情報を入手しているからです」 「そいつは、なんのために入り込んだ?」 「それを、あなたから教えてもらおうと思っていたんですが」  林田は激しく首を振った。 「知らない、本当だ」  いつのまにか、彼から傲慢な態度が消えている。  それから、およそ一時間に渡って、立原は林田を問い詰めた。林田は、最後には別人のように大人しくなり、皮肉な口調は消えないものの、ときには立原の機嫌を取ろうとするような笑顔さえ見せた。  しかし、〈真の神の文字〉との関係については、完全に否定した。 「じゃあ、今日はこれくらいにしておきましょう」  立原はノートパソコンをしまいながら、言った。 「しばらくの間、われわれがあなたの身柄を預かります」 「監禁か」 「強制はしませんよ。ただ、断れば、即座に逮捕されるでしょうね」 「強制じゃないか」  抗議する林田の声は、しかし弱々しい。 「そう取ってもらっても結構。メディア・シンバイオシスの仕事は在宅、という形で、こちらの用意したホテルでやってもらいましょう。水谷社長とは合意済みです。そして時期が来たら、あなたは警察に自首するのです」 「そういう筋書きか」 「自首のタイミングはこちらで決めさせてもらいます。メディア・シンバイオシスへの影響も大きいので、そちらのコンサルティングを引き受けたわれわれとしては、水谷社長と事前に対応の準備をしておかなければなりません」 「犬のように、どこまでも顧客に忠実なんだ」 「その代わり、あなたの裁判のときには、弁護士はこちらで選んであげましょう。とても優秀な弁護士をね。うまくすれば、軽い刑で済むかもしれません。だから、われわれに逆らわない方がいい」 「ありがたく思えばいいのかな」 「もちろん、その弁護士費用は、あなたに払ってもらう。あの麻薬中毒にされたSEのリハビリの費用も、それからもちろん、これからあなたが滞在するホテルの宿泊料金もね。分割払いは認めましょう。一生掛かっても、払いきれるかどうか、わからない額ですが」  林田は、苦しげな表情になった。 「あのSEが麻薬に溺れたのは、俺のせいじゃない。奴自身の弱さだ。だが、それを利用したことについては、後悔している。言い訳に聞こえるだろうが、その雑誌に載った奴らから彼のことを聞いて、つい情報を得る手段として使ってしまった。これでとてつもなく大きな事件が起こせるぜ、って思ってしまったんだ」  織絵が訊いた。 「何が目的だったの? 林田くん」 「特に目的はなかった」 「そんな」 「二十世紀のハッカーたちと同じだ。一セントの利益にもならないのに、ヤンキー・ドゥードルだのミケランジェロだの、コンピュータ・ウィルスを作ってばら撒いた連中と。ただ、自分にどこまでできるのか、試してみたかった。それだけだ」 「実際、大きな事件になりました」と立原は言った。「それが目的なら、大成功だ。その代償を、これから後払いで払ってください」  立原は腰を上げた。 「西野さんと皆川さんは、私と一緒にこちらへ。林田さんは、ここでしばらくお待ちください。警備員が、ホテルまでお連れしますから」  織絵とミナカナは、まだ当惑が消えないまま、立原に促されて立ち上がった。  三人が部屋を出ると、林田が一人残された。  ドアが閉まった。
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