イード・アル・カマルの夜

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イード・アル・カマルの夜

 イード・アル・カマルの夜、旦那様はおひとりで市場へお出かけになる。  国王ご夫妻までその仲睦まじさを耳にされたという奥方様は、もう十年も前にお亡くなりになった。  湖の水面のように穏やかに、誠実に、日夜商いに励んでおられるが、旦那様はまだお若い。   月下の市場できらめく宝石を手にしようと、妖しき乙女を買おうと、責められるものではあるまい……。  噂と小さな哀れみがさざめく中、砂嵐は静まり、また年に一度の祝宴はやって来る。  ザイドは今日の帳簿を締め終えると、執務机を立った。 「ミーミア、具合はどうだい」  夫婦の寝室に入り、寝台の中に特別にあつらえた籠から彼女を抱き上げる。  日にさらしたら命すら危ういような、淡い白銀色の毛並みを持つ老猫が、弱々しくザイドの頬に身を寄せた。  貴族が愛玩動物として飼う猫は爪や牙を切られたり、時には生殖器さえ傷つけられることがあるが、ザイドはミーミアにそのようなことをするのは考えもつかない。  ミーミアが時には夫婦の時間を邪魔するほどやんちゃだったのは遠い昔で、今は自力で部屋の中を歩くこともできないほど弱ってしまった。  ザイドは朝夕には必ず寝室に戻り、ミーミアに手ずからさじで食事を与えている。妻を恋しがって泣くときは腕に抱いて眠る。召使たちが世話を任せてほしいと繰り返し願っても、それが幸せのようにミーミアと共にいる時間を選んだ。 「今日は祭りの夜だよ。行こう」  ザイドは懐に愛猫を抱くと、水筒だけを持ち、ひとり屋敷を出た。  屋敷から石段を下った先に、市場がある。砂漠に佇むこの街は眠りを知らず、市場が閉じる時は来ない。  ただ年に一度巡る、月の祝宴(イード・アル・カマル)は、ザイドと妻にとって特別な夜だった。  妻が亡くなってから毎年、ザイドは同じ道を辿る。欠けた黒い石が道しるべとなる石畳を歩き、灰混じりの風を受けながら、閉じていくような路地の奥へ向かう。  路地の奥に現れたのは、墓地だった。黒い石の墓標が並ぶ中に、ひときわ小さな空色の墓標がある。  空色の墓標は、瞳が黒くなる前に亡くなった子どものもの。ザイドと妻の間に生まれて、空の色を知る前に亡くなった息子の墓標だった。  ザイドは息子の墓標の前で屈みこむと、水筒の水を注いで、息子の頬にするように石を撫でた。 「私と君の子だ。きっと神に愛され、幸せでいるだろうね」  何度、妻が墓標の前で泣き伏す背中を見ただろう。そのたびに願うように告げた言葉には、今も答えはない。  私が丈夫な体だったなら、そう後悔に泣いた妻は、その言葉に蝕まれるようにして、息子を亡くした数か月後に亡くなった。  ザイドは目を閉じたまま、押し寄せた悲しみの中で宵闇の気配を感じていた。  ここには毎年灰の風の匂いと、湿気た土の感触しかない。遠いところで市場の喧騒が聞こえるが、まるで夢の中のように現実味がない。  そうだろうか? ひとりで心に問うと、妻が亡くなってからというもの、ずっと悪い夢を見ているようだと答えが返って来る。  商いは繁盛し、街一番の富豪となった。丘の上に街を見渡す邸宅を建て、百人もの召使を抱える。  けれどただ惰性のまま商品を売り買いし、分かち合う者もいないまま富を増やす自分は、果たして生きているといえるのだろうか?  私はぜいたくになり過ぎた。どうかきつく叱っておくれ。子どものように妻に願ったとき、懐で動くものがあった。 「ミーミア!」  懐に抱えていた老猫が抜け出し、さっと駆けだした。  ザイドは真っ青になって手を伸ばしたが、部屋の中でさえほとんど動けなかったはずの彼女はもう路地の陰に隠れようとしていた。  ザイドは袖を振り乱して追いかける。ミーミアは軽やかに駆けるが、不思議と視界から消えない。白銀の耳やしっぽをのぞかせながら、時にはザイドを振り向いて確かめる仕草もする。  ミーミアを追ううち、いつしか階段を上り始めていた。左右には屋台が並び、干し肉と香水の匂いが混じり合う。  呼び込みの声と人々の熱気に意識を揺さぶられ、ザイドが大きく息を吸ったときだった。  ミーミアの姿が一瞬消えたように見えた。  それはミーミアが消えたからではなく、辺りのランタンが一斉に消えたせいだった。  古くから、イード・アル・カマルの夜は不思議なことが起こるといわれた。風もないのにランタンは消え、月が明るいのに何も見えなくなる。 「緊張してるの?」  ふいにすぐ側で少女の声が聞こえて、ザイドは息を呑んだ。  淡い白銀の髪を肩でまばらに切りそろえて、青い瞳をした、十台半ばほどの線の細い少女だった。 「大丈夫よ。私がついてるんだから」  それは出会った頃の妻だった。体が弱いのに、いつもザイドを守ろうとする、姉のような人だった。  何度、夢でもいいからもう一度会いたいと願っただろう。  暗闇の中、妻の姿しか見えなかった。懐かしい汗っぽい自分の匂いで、たぶん自分も十歳ほどの少年に戻っているのだと思った。 「きっと光るはず。そうよ。イード・アル・カマルに花開くって、昔話にもあったもの」  ザイドと妻は元々貧しい流浪の民で、少年少女のときにこの街で出会った。そして二人でひともうけしようとたくらんだ。  イード・アル・カマルに花開くという種を育て、暗闇の市場で花咲かせて高値で売ろうと。  今はその小さな悪だくみの、ほんの少し前だった。わんぱくな少女とおどおどした少年だったザイドが、まだ恋に落ちる前だった。  妻はザイドの手を握って、いつかの言葉を告げた。 「ザイド。月は姿を消す日もあるし、花はいつか枯れる。ずっと一緒じゃないの」  手から伝わるぬくもりと共に、ザイドは彼女が自分に注がれていくような気持ちがしていた。 「……でもまた、イード・アル・カマルの夜は巡るから。何も心配しないのよ」  彼女が花のように笑ったとき、ザイドは暗闇を照らす花が咲くと信じた。  暗闇の中でほころぶ光の気配を感じて、ザイドは泣きながら妻の手を握っていた。  翌朝、ザイドの元に召使が行方不明になっていたミーミアを連れてきた。  召使は、おそらくミーミアはこのまま安らかに息を引き取るだろうと言っていた。  ザイドは眠るミーミアを受け取り、その小さな体に頬を寄せた。 「そうだな。夜はまた巡る。……ありがとう」  ミーミアがくわえていた月の花をみつめて、ザイドはずっと止まっていた時間の先にある未来に思いを馳せた。
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