序章

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 その老いかけた男は、夕陽の照らす扉の前に膝から崩れ落ちた。  顔を覆う筋張った黒い手、繊細さを漂わせつつも、寸暇を惜しんで働く職人の手だ。わなわなと震えるその手の間から、悲嘆と疑念、それに恨みに乱れた息が不規則に洩れて出る。  遠巻きに見守る近所の住民たちも、痛ましげな視線を男の憔悴した背中に注ぎ、ひそひそと囁き合うばかりだ。 「領主さまも、ご無体だよなあ。いくら初物がお好きでも……」 「これで何人目になるんだ? この手の告知文が復活して」 「七人目らしいな。去年、“初夜権”復活を宣言なさってから」 「フィーネちゃんも、ハルトもかわいそうにねえ……」  住民たちの気の毒そうな眼差しは、男の背中と、残照の当たる扉を何度も見比べる。  灰色の石を漆喰で固めた、質素な家の玄関口。  石の鴨井の上には、『鍵工房ライブール』と刻まれた木の看板が掲げられている。  そして飴色の板戸の真ん中に突き刺さる、ひと振りの古風なナイフ。  その鋒の貫く羊皮紙こそが、公王が花嫁の初夜を要求する無情の布告文に他ならない。
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