第二章 エルマンの準備 ――ある噂――

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第二章 エルマンの準備 ――ある噂――

 一  しとしとと降り続く雨の中、フィーネは料理人トーマが手綱を執る牛車に揺られ、工房への夜道を辿る。  道行く人影も、灯り一つさえない真っ暗な街路に、黒牛の蹄の音と車輪の軋みが低く響く。  奇妙なことに、二輪のカートを曳く牛は、トーマが手綱を操らなくてもフィーネの家路へと勝手に向かっている。  カートの荷台にちょんと座ったフィーネは、手綱を軽く握っただけのトーマに後ろから聞いてみた。 「この牛、うちの工房までの道を知ってるみたいですけど、どうして……?」 「ああ、それは」  トーマが肩越しにわずかに振り向いた。  眼鏡越しの穏やかな眼差しを彼女にくれて、こともなげに答える。 「さっき私の払子(ほっす)を通して、切り紙に私の記憶を転写したからです。夕方、私も偶然にライブール工房の前を通りましたので、道は覚えています。もっとも、この“形代術(エフィッギィ・アーツ)”は東大陸の方術としては、それほど物珍しくもないし、程度の高いものでもありませんが」  彼の控えめな物言いに、フィーネの肩に止まる鳥がくちばしを突っ込んできた。  白いヤツガシラのアルヴィーだ。 「謙虚過ぎるわよね、トーマさんは。アタシが知る限り、トーマさんは当代屈指の方術の名手よ。料理の腕もね。つい先日まで、ある高名な大貴族から全幅の信頼を享けていたほどの……」
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