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 見上げる秋の空に、命の残滓みたいな薄っぺらい煙が立ち昇り、揺らめき、遠くへと消えてゆく。  何の感慨も浮かばなかったが、それは無関心というのとは少し違った。ただ最後まで無心に見送るのが、今この瞬間における自分の責務の全てのような気がしただけだ。    夕刻間近の色づき始めた空が、あのひとを大きな胸で迎え入れる。今はもう安らかだろうか。犯した罪も、苦い記憶も、全て忘れてこの世界に棄てて行けばいい。  それは生きている自分が引き継げばいいことだ。  これから先、死ぬまで。  どこか皮肉めいた思いで、力なく笑う。 『タカユキさんが死んだって。今、警察から……(しん)ちゃん、あんた行ってきてくれる?』  夜更けの電話で母が唐突に言った。  タカユキ? ――誰だっけ、それ。  無言でいる慎に、母は微かに震える声で続けた。 『タカユキさん。あんたの父さんだった。……知らない町で、死んじゃったって』  唐突に浮かんだのは、肩幅が異様に広い、濃紺の作業着を着た男の後ろ姿だった。  ああ、そうか。あのひと、タカユキって名前だったっけ……。  十三年前、自分が追い出した男。顔もうまく思い出せないのは、最後に蹴りつけた背中の残像が、他の何をも凌駕するほどに、あまりにも鮮やかだったからだろうか。  かすかにたわんだ厚みのある重い背中の感触と、膝に伝わった鈍い痛みだけが鮮明に思い出される。  顔も思い出せないのに、自分の一部として、確かに残っているのだ。  そうか。死んだのか――。  名前を思い出せなかったのは、その存在を自分の中から消し去ろうと努力した結果だった。  けれど名前なんかなくたって、この仄暗い憂鬱と、奇妙な欠落感は、いつまで経っても自分につきまとうに違いないのだ。  被害者は自分たちだったはずなのに、まるで無垢な子供の腕を捻り上げて泣かせたみたいな後味の悪さが、いつまでも慎のなかにこびりついて離れない。  そしてそれはあのひとが死んだことで、この先永遠に払拭されることはなくなってしまったのだ。  重い枷を新たに得た気分で、途切れがちになった煙を見上げていると、背後に微かな視線を感じてふと振り向いた。目をさまよわせると、喪服姿で木陰にそっと身を寄せるようにして立っている男と目が合った。  唐突な既視感が襲う。 (ああ、そうか……)  慎は瞬時に理解した。。  男は慎と目が合うと、遠目にも身を固くしたのが判った。小柄で細身で、姿勢がいい。きちんと整えられた髪と蒼白い顔。引き結ばれた唇は色を失くし、その目許は静かな眼差しとは裏腹に、かすかに赤く腫れているのかもしれなかった。  あの頃は今の自分より少し若い位だったと思うから、今は三十代半ばくらいだろう。  火葬のみの葬儀だから、他には参列者もいない。ごまかしの利かない空間で見つめ合っていては間が持つはずもなく、慎は表情を決めかねたまま、曖昧な会釈をした。  すると相手も夢から醒めたみたいにハッと目を見開き、ぎこちない会釈を返す。  それからもう一度「恋人」の行先を目を細めて見送ると、すっと身を翻し、早足で去って行った。 「あ」  慎は思わず追いかけようと足を前に出したが、行ってどうなるものでもないと思い直し、彼に倣ってふたたび空を見上げた。  煙はもう、ほとんど消えかけていた。
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