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 雪弥の腕を掴んだまま、慎は夜道をズンズンと突き進んだ。烈しい怒りが胸に渦巻く。雪弥はその怒りを感じとったのか、何も言わずについてきた。それがいっそう慎の怒りを煽った。  雪弥には意志というものがない。いつだって相手の思うがまま、されるがままだ。それは全ての責任を相手に負わせるということだ。それによって相手がどんな想いをするかなど、雪弥には思いも寄らないに違いない。  足は自然といつかの河原へと向かっていた。  雪弥が足を滑らせた階段をいささか乱暴な速さで降りると、慎は唐突に雪弥の腕から手を離した。そのまま無言で川岸まで歩く。  今夜は月の光が弱く、足元も覚束ないほど河原は暗かった。遠くにある常夜灯の光が、かすかに辺りを照らすだけだ。  雪弥がついてくる気配がなく、慎は仕方なく振り向いた。すると雪弥は慎が手を離した場所で立ちすくんだまま、こちらを見ていた。その姿はひどく頼りなく、慎の胸に苦いものがこみ上げる。 「――なんなんだよ、お前」  慎が低く言うと、雪弥はビクリと身体をすくめた。 「戻りたいのか、あそこに」  雪弥が弱々しく首を横に振る。 「じゃあ、どうしたいんだ」 「……」 「ハッ、勝手にしろ」  慎が吐き棄てて再び背を向けると、雪弥が焦ったような声で慎を呼ぶのが判った。それでも慎は許さず、川に沿って歩き出した。 「よく、見えないんだ」  うわずった声が、慎の足を引き止める。 「昔、殴られたとき、傷ついて。……暗いと左目がよく見えない」  慎は思わず振り向き、雪弥を呆然と見つめた。それから雪弥と歩いた夜道のことを思い出す。ひどく頼りない歩み。その手を引いて歩いたこと。どこか、縋るようだった雪弥の手。 「どうでもいいと思ってた。別に、見えなくなったって」  慎は大股で雪弥の元へと戻った。慎が目の前に立つと、雪弥は唇を噛み、何度もためらったあと、慎を見上げた。 「でも、――宝井が見れなくなるのはいやだ」  胸の奥底が、震えた。潤んだその瞳を見た瞬間、何も考えられなくなって、慎は衝動のまま雪弥を抱き寄せた。  あ…、という雪弥の細い声が漏れた。  それは安堵の溜め息のようでもあり、放った言葉への怖れのようでもあった。  片腕で抱き込めるほどの細い身体は、震える仔犬を抱き締めた時みたいな、掛け値なしの庇護欲と愛おしさを慎にもたらす。それは慎自身にとっても大きな癒しとなった。  雪弥の身体は自分にとても合っている。最初に触れた時からそう感じていた。  隙間なく胸を合わせて抱き込むと、まるでパズルの最後のピースが嵌ったみたいにすべてが腑に落ちる。まるで元々ひとつのものだったみたいに。引き離されていた魂が、やっと元の場所に還ったみたいに。  それはひどく感覚的なものだったが、そういうものこそが、どんなに理路整然とした理屈よりも、はるかに正確に心の真実を言い当てるということを慎は知っていた。  雪弥を守りたいと思った。  慎はそっと雪弥の左目の縁に触れた。雪弥が目を閉じる。慎の指先は優しくその目蓋の上を辿った。  慎も一度だけ殴られたことがある。父親に。後にも先にもその一回。父親の大切なひとのために。  その踏みにじられた感じ、衝撃を決して忘れはしない。  自分は父親にとって、殴っても構わないと思えるほど、軽んじられていたのだと思い知らされた。  そのことが慎に、深い深い傷を残した。  そんな暴力を雪弥はきっと、何度も何度も受け続けてきたのだ。  一方的な暴力に晒されることの恐ろしさ、惨めさ、理不尽さをたった一人で、この頼りない身体で耐え続けてきたのだと思うとたまらなかった。  傷つけられ、踏みにじられ、それでも人を乞う心を棄ててはいない雪弥。もっと愛されていいのに。もっと大切にされていいのに。  そうするのが、自分であればいいのに。 「宝井……ありがとう」  雪弥は慎の胸に頬を押しあてたまま、密やかな声で、そう言った。
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