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雪弥の部屋は、慎の部屋とは反対の側の一番奥にあった。左右対称である以外は、ほぼ同じ間取りになっている。家具は少なく、低いテーブルと一人がけのソファ、本棚、ベッドくらいしかない。だが色使いが明るく、清潔で、居心地の良いその部屋は、紺野の部屋を思い出させた。
「そこ、座ってて」
雪弥は慎をソファに促すと、シャツの腕をまくって手を洗い、小さな冷蔵庫を覗き込んだ。夜勤開けなどの、食堂の閉まっている時間に簡単な調理が出来るように、各部屋には簡易キッチンが設えてある。
雪弥はいくつかの食材を取り出し、すぐに何を作るか決めたようだ。小さなまな板を置き、野菜を水で洗い、迷いのない手つきでそれらを刻み始めた。
慎に料理をふるまうと決めた瞬間から一心にそれに向かって動き出す。そのひたむきさがいじらしく、また少しの戸惑いを慎に与えた。
フライパンを火にかけ、油を落とし、刻んだ材料を炒め始めるまで雪弥は一言も発さなかった。
「タバコ、吸っていいか」
なんとなく手持無沙汰になって慎が訊くと、雪弥は頷き、流しの隅に置かれていた灰皿を慎に渡した。それを受け取り、慎はベランダへの硝子戸を少し開けて、床に座り煙草に火を点けた。
受け取った灰皿にかすかに灰がこびりついているのに気付く。
「瀬野も吸うのか」
意外に思って訊くと、雪弥はフライパンを揺らしながら、吸わない、と短く答えた。
「ふうん……」
それ以上は訊かなかったが、たぶん男がここに来た時に吸うのだろうと思った。
面白くない気持ちがこみ上げるが無視をする。ややこしい思いはごめんだ。
雪弥は慎の意見を尊重すると言ったり、慎の姿が見えなくなるのは嫌だと言ったりしたが、それが恋愛感情からくるものとは限らない。
雪弥が慎に懐くような態度を見せるのは、そういう友人関係が雪弥にとって珍しいことだからなのだろう。
「なあ、瀬野っていくつ?」
雪弥が小さく噴き出す。
「二十二だけど」
「へえ、十八くらいかと思ってた」
雪弥は笑いの残った顔で慎を睨んだ。
「宝井は?」
「二十五」
「そうなんだ、三十くらいかと思った」
可愛い逆襲に慎は自分の顔がニヤけるのを感じた。つきあいたてのカップルの会話はこんな感じだろうかと馬鹿なことを考える。
雪弥の手際は良かった。無駄な動きがなく、瞬く間に香ばしい匂いが立ちこめる。
「料理、慣れてるんだな」
「うちは、母親がいなかったから」
雪弥は火を調節しながら言った。彼は先に行くほど細くなる、繊細で器用そうな指をしていた。
たくしあげた濃紺のシャツの袖から伸びる腕はいっそう白く感じられ、いけないものを見ているような気分にさせられる。
「大変だったんだな」
「別に、料理は嫌いじゃないし。作るとみんな喜んでくれたから」
みんな。今までの男達のことだろうか。
「オレが作ったものを食べると、みんな笑ってくれる。いっときだけだけど」
「……」
「そういうときだけ、内側に行ける」
「内側?」
「そう」
慎は立てた膝に腕を乗せ、煙草をくゆらせながら雪弥の横顔を見つめた。
それは相手の懐に潜り込めるという意味だろうか。男の心を掴むために料理をする?
いや、そうじゃない。慎には何となく雪弥の言う意味が判った。
この世界の内側――。
今、この部屋にいるのは、内側に行きたくても叶わない人間と、あくまで傍観を貫きたい人間だ。慎は雪弥を痛々しいと感じたが、それは慎とて同じことかもしれない。歪で苦い人間関係しか結べないという点では、二人はとても似ているのだろう。
慎は短くなった煙草を灰皿に押し付けると戸を閉めて立ち上がった。料理をする雪弥の脇で壁にもたれ、真剣な横顔をじっと見つめる。
雪弥は慣れた手つきで、茹でたパスタを炒めた具と絡めて調味料で味をつけてゆく。手の動きが美しくて見惚れていると、雪弥が塩の小瓶を取り落した。
「大丈夫か」
「あ、あんまり、…見ないでほしい」
「え?」
顔をあげると、雪弥の頬がうっすらと紅くなっているのが判った。
「あ、いや、……悪い」
慎はぎこちなく目を逸らし、ソファへと戻った。
けれど調理をする雪弥の後ろ姿から目を離すことが出来ず、食い入るように見ていると、雪弥は振り返り、困ったように小さく笑った。
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