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ふと沈黙が落ちて、慎が雪弥を見ると、雪弥も顔をあげ、二人の視線が絡み合った。その瞬間、雪弥の瞳が大きく揺らぐのが判った。
慎の手が知らずに雪弥の頬に触れる。ビクリと雪弥が首をすくめた。冷たくしっとりとした頬の感触と、小さな顎の繊細な感覚が慎の鼓動を昂らせる。
雪弥は目を閉じ、慎の無骨な手のひらに、頬をそっと押し付けた。柔らかなその仕草に慎の心臓が甘く痺れる。たまらなくなり、もう片方の腕で細い腰をぐっと引き寄せると、そのまま唇を奪った。
「ぁッ……」
小さな悲鳴をあげ、雪弥はあっけなく慎の口づけに捕まった。蜜を蓄えた果実のように、柔らかく、瑞々しい唇を、慎は夢中で貪った。
「ん……ふっ……んぅ……」
雪弥が弱々しく慎のシャツの胸元を掴み、懸命にその狼藉に応えるのが、可愛くて、憐れで、慎は抱きしめる腕をいっそう強くする。
スケッチブックがバサリと床に落ちる音がして雪弥はビクリと震えたが、慎は構わずに甘い唇を貪り続けた。
歯列をこじ開け、怯える小さな舌を己の強引な舌で絡め取ると、雪弥が大きく震え、ガクリと腰を落とすのが判った。
「ぁッ、ん…ふ……ぁ……ふ、ゃッ」
慣れない様子に慎は口づけを解き、劣情に憑かれた目で雪弥の顔を覗き込んだ。
「初めて、なのか」
雪弥はカッと頬を染めて、俯き、やがてコクリと頷いた。慎は思いがけない事実に目を瞠る。さんざん男達と交わってきたはずの雪弥が口づけを知らない?
「キス、は、されたことない」
雪弥が慎のシャツを震える指でぎゅっと掴んだまま告白する。
慎はわずかに濡れた雪弥の眦を指で拭いながら、雪弥の激しい鼓動を自分の胸で感じていた。それは雪弥の言葉が嘘でないことを如実に表していた。
雪弥を抱いた男達は、雪弥を性の道具としてしか扱わなかったということか。
慎は激しい怒りに捕われる一方で、どこか暗い喜びも感じていた。
この唇だけは、自分のものだ。自分だけが知っている。そのことに抑えがたい喜びを覚える。
「宝井は、」
雪弥が慎の胸に頬をあてながら掠れた声で訊いた。
「誰かと、した?」
「そりゃ、まあ、な」
「……たくさん?」
どんな顔をしてそれを訊いているのか知りたくて、雪弥の身体を離し、そっと覗き込んだ。
雪弥は慌てて俯くが、慎はそれを許さず、顎をそっと掴んで顔を上げさせた。
「たくさん、したよ」
慎が幾分意地悪い気持ちで告げると、雪弥は唇を噛み、切なげにそっと目を伏せた。
慎は再び雪弥の濡れた唇を奪った。今度はもっと深く舌を差し入れ、口腔を嬲り、逃げ惑う舌を捉え、吸い上げ、二人の間に唾液が零れ落ちて、雪弥の首筋を濡らすほどにまで貪り続けた。
長い口づけのあと、慎はようやく雪弥を解放し、息を乱す、しなやかな身体を腕のなかに抱いたまま、互いの烈しい鼓動が落ち着くまで黙って雪弥の柔らかな黒髪を撫でていた。
雪弥も素直に慎の胸に身を預けて、どこか夢見るような表情でまどろんでいる。絶対の信頼を寄せるかのように大人しく甘える仕草は、慎の心を甘くざわめかせた。
まるで恋人同士のような優しい時間は、慎を深く癒し、今までに感じたことのない安らぎをもたらした。
時折ぴくと動く、雪弥の左目の目蓋に触れてみる。
「今はちゃんと見えてるのか」
「うん。視力は弱いけど」
雪弥はゆっくりと身を起こし、前髪をかきあげて慎を両目でまっすぐに見た。その目がしっかりと焦点を結び、自分の姿を捉えていることに、言いようのない安堵と、心強さを感じる。
「親父に殴られたのか」
雪弥は小さく頷いた。
「どうしてるんだ、今」
雪弥はまた慎の胸にそっと頬を寄せる。
「更生施設にいる。アルコールでもうボロボロになってたから」
「そうか……」
慎は雪弥の肩を抱く腕に力を込めた。
「暴力から逃げてきたって、」
「逃げてきたんじゃない。父さんは、オレといるとダメになるから。オレが出て行くと知ったときは、多分ホッとしたんじゃないかな……」
雪弥は慎の腕の温もりに、心地よさそうな溜め息をつき、目を閉じた。
「父さんがオレを憎む気持ちは判るんだ。母さんはオレの命と引き換えに死んだから。……父さんは、母さんさえいれば良かったのに、オレを生んだせいで母さんは死んだから」
「……」
「だからオレを殴った。だけど、殴るときはいつも、父さんも辛そうな顔してた。殴られることより、そっちの方が辛かった。だから家を出たんだ」
慎はいつか雪弥に向かって、結局人の言いなりかと詰ったことを後悔していた。雪弥に意志がないんじゃない。いつでも自分より他人の痛みを考える。その心が癒される事を願っている。それこそが雪弥の意志なのだ。
「俺は、あんたの母さんに感謝してる」
慎は雪弥の滑らかな黒髪を撫でながら、嘘偽りのない本音を零した。
雪弥がハッと目を開け、慎の瞳を覗き込む。信じられないことを聞かされたという顔で。
けれど慎の眼差しに真摯な色を読み取ると、ちいさく身体を震わせ、瞳を微かに潤ませた。
「……オレも、感謝してる」
慎は柔らかな雪弥の心を受け留め、何よりも慎を癒す雪弥の優しい体温をぎゅっと腕に抱き締めた。
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