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 その崎谷の読みが確かだったことを、慎は終業時刻間近になって痛感することになる。 「宝井君」  いつのまにかハイネスが背後に立っていて、慎はギクリと振り向いた。気配を感じさせないのがひどく不気味だ。 「この前も注意しませんでしたか」 「え?」  ハイネスは冷ややかな目で床に目をやり、転がっているネジを靴の爪先で転がした。 「作業は必ず五セットずつ行う。一セットが終わったら、当然ネジ置きにも床にもネジが落ちているはずがない。床に落ちているネジは留め忘れですか」 「いや、さっきちゃんと」  作業前に床はきちんと点検している。ネジが落ちているはずがなかった。 「では、これはなんでしょう」  ハイネスはネジを拾い上げ、陰険な目つきでそれを慎の目の前に突き付けた。慎はぐっと拳を握る。ハイネスが床にわざと転がしたものに違いなかった。 「やる気あるんですか。同じことを何度言われても、君の頭では理解できないですか」  班の連中がチラチラと二人のやり取りを見ている。その中には例のハイネスの取り巻き達も居て、忍び笑いを漏らしている。 「瀬野君と乳繰り合ってるヒマがあったら日本語の勉強でもしてください」 「!」  信じられない発言に慎は目を剥いた。取り巻き連中がゲラゲラと笑い出した。慎の頬がカッと熱くなる。隣の班で作業をしていた雪弥が心配そうにこちらを見ているのが判った。 「なんで、早川さんがそんなこと言うんです」  慎は目に怒りをこめて低く言った。 「君があんまり瀬野君にご執心だというんで心配になっただけですよ」  そしてハイネスは慎の耳元に顔を寄せ、慎にだけ聞こえるように言った。 「アレは淫乱ですから。絞り取られてフラフラなんでしょう? 一晩に三人も相手させたのに、最後は連中の方が真っ青になってましたからね。中毒にならないよう、ご忠告しておきます」  その瞬間、慎はガッとハイネスの胸倉を掴みあげた。シン、とその場の空気が凍りつく。 「……いい加減にしろよ?」  慎が低く凄むと、ハイネスは一瞬顔を強張らせたが、すぐにからかいの目になって胸倉を掴む慎の拳をぽんぽんと叩いた。 「短気を起こさない方がいい。君も仕事を失くしたくはないでしょう」 「あんたにそんな権限があるのか」 「さあ、どうでしょう。とりあえず君には責任を取って貰います。このネジを使う製品は全て開梱して留め忘れがないかチェックしてください。本日作業分の全てです。出荷時刻まであと二時間半あります。すべて一人でやるように。いいですね」  慎は茫然として今日梱包した製品の山を見た。このネジを使う製品といえば、ほとんど全てだ。気が狂っているとしか思えない。  同時に終業の鐘が鳴り、ハイネスはパンパンと手を叩いた。 「はい、お疲れさまでした。今日の作業は終わりです。あとは宝井君に任せてあがってください」  作業員たちは一様に強張った顔で慎を気の毒そうに見ながら、けれどハイネスの報復を怖れて手伝うと言い出す者もなく、葬列に向かうような足取りで作業場から離れて行った。 「ああ、瀬野君。君には別の作業を手伝ってもらうので一緒に来てください」  慎がハッと振り向くと、雪弥が心配そうに眉を顰めて慎を見ていた。  それが気に障ったのか、ハイネスは雪弥の肩を抱いて強引に連れて行こうとする。雪弥がそれでも立ち止まろうとすると、 「大丈夫だ」  短く言って、慎は振り切るように作業台へ向かった。腸が煮えくり返る思いだったが、今はこれを片づけるしかない。雪弥のことは心配だったが信用するしかなかった。  一度梱包され、出荷先別に並べられた製品の中心に立ち、慎は何重にも巻き付けられたストレッチフィルムと梱包用テープをカッターでザクザクと切り落とした。  二百近いそれらを終えただけで汗が落ちる。散らばったフィルムの残骸をかき集め、開梱にかかった。  中を確かめたのち、再び梱包する。建材のサイズは長短さまざまだ。長いものは通常二人で梱包するため二倍の時間がかかる。ひどく虚しい作業だった。この中の一番重い建材でハイネスの後頭部を思い切り殴りつけたい気分だった。 「一人で残業ですか」  ふいに背後から声がかかって、慎はギクリとした。  振り向くと、今頭の中で叩きのめした顔とよく似た面差しの男が立っていた。いや、顔立ちはさほど似ていない。ただ眼鏡越しに冷たく光るその目だけは、ハイネスとよく似ていた。  昼間食堂で見かけた工場長の長男、つまりハイネスの兄だった。 「何か問題がありましたか。もう出荷時刻も近いようですが」 「早川さんからの指示です」  短く答え、作業を続ける慎を、早川兄が怪訝な目で見る。 「君はそれを必要な作業だと思いますか」 「いえ、まったく」  抑揚のない声で慎は突き放す。悪印象を持たれようが構わなかった。  早くこれを終わらせて雪弥の様子を見に行きたかった。 「どうも良くありませんね。アレも随分評判が悪いようだ」  慎が応えずにいると、彼は足音も立てずに去って行った。何を考えているのかまったく判らない。  慎はチラとその異様に姿勢のいい背中を見送ると残りの作業を急いだ。
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