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十一月も半ばを過ぎた頃、慎は唐突に母に呼び出された。いつもの喫茶店ではなく、珍しく夜のバーでの待ち合わせだった。
母はすでにカウンターに座っており、グラスを傾けていた。
入ってきた慎を見て軽く手をあげる。慎も無言で手をあげ、隣のスツールに腰を下ろした。
「お夕飯は?」
「食ってきた」
「そう」
慎はビールを注文すると、タバコを取り出した。チラと母を見る。いつものような服ではなく、黒のワンピースに光沢のあるシルバーのストールを肩にかけている。昔を思い出した。
母が横浜の小さなスナックで働いていた頃、慎は父が長距離の仕事に出るたびに、よく夕飯のおかずを貰いに店まで行っていた。店はいつもそれなりに繁盛していて、慎が入っていくと何人かの常連が親しげに声をかけてくれた。
カウンター向こうで客をさばく母は、いつも少し頬を紅潮させており、活き活きとして華やかだった。慎はそんな母が嫌いではなかった。
タッパに店の料理を詰めたものを貰い受け、慎はまた暗い夜道を辿り、家へと帰った。独りの夕飯は味気なかったが、慎は孤独ではなかった。
今夜の母はなんとなく、その頃の彼女を思い起こさせる。
「悪かったわね、急に」
「別に。旦那は?」
「出張」
「息子は」
「お義母さんのとこ」
「へえ、じゃあ羽伸ばしに来たのか」
ふふ、と母は笑った。
まるっきり他人の会話だと慎は思う。母の再婚相手には会ったことがあるが、息子には会ったことがない。名前も知らなかった。
慎の生活は、完全に母の家庭から切り離されている。
「懐かしいわ、こういう雰囲気」
母も同じことを考えていたらしく、いつになく弛緩した様子でカウンターに頬杖を突いている。独身気分でも味わっているのだろうか。
――いや、そうじゃない。慎はすぐに悟った。
母は緊張しているのだ。母子二人の生活から慎の身体に染みついた直感がそう告げる。
母はアルコールの力を借りて、何ごとかを慎に告げるつもりなのだ。
慎は運ばれてきたビールに口もつけず、母の次の言葉を待った。酔ってはいけない。そんな気がした。
「まだ、慎ちゃんが生まれる前ね、お父さんと出逢った頃、母さん、もうダメかもって思った時があったの。多分、きっと良いことはないなーって、無理だなぁって。そのとき、タカユキさんが店に来てね、泣きごと言って困らせて、ひどかったの母さん」
「……」
「あのひと、なーんにも言わなかった。ただじっと優しい目で私を見て、笛を吹いたの」
「笛?」
「そう。お祭りの屋台なんかにおいてある、ピローって伸びるやつ、あるでしょ。紙が巻いてあって、吹くと長く伸びるやつ」
「ああ……」
「それをね、私に向かってニコニコしながら、ゆっくり吹くの」
慎はその光景を想像した。状況を考えればひどく不謹慎な行為とも言えるが、あのひとがやるときっと何の問題もなかったんじゃないかと思える。
大きい身体に見合う大らかさと、知らずに人をなごませる剽軽さがあった。
「ダイジョウブ、ダイジョーブだよ、って言われてるみたいで、母さん泣きながら笑っちゃった」
母はグラスを両手で掴み、琥珀色の液体をじっと眺めている。その目はもはや慎を見ようとはしなかった。
「……だから甘えちゃったのね。この子が中学を卒業するまででいい、そばにいて欲しいって。この子が十五になったら、ちゃんと話すからって」
慎は呆けたように母の横顔を見つめてから、額を押さえてカウンターに肘をついた。クラリと眩暈がする。
いったいこの話はどこに帰結するのだろう。
母はグッと残りの酒をあおって、目じりに光るものを拭った。
それからスツールをくるりと回して慎と向き合うと、じっと慎の目を見つめたまま、その手をぎゅっと握った。死人のように冷たい手がぶるぶると震えている。
慎の背を戦慄が駆け抜けた。
「――ごめんね、慎ちゃん。タカユキさんは、あんたの本当の父さんじゃないの」
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