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「どうぞ」
紺野は両拳を握りしめたまま正座している慎の前に紅茶のカップを置いて、自分も慎の前に座った。
慎は無言で頭を下げて礼を言う。
紺野はこの前よりも少し痩せたようだった。それに顔色も悪い。
「具合、悪いんですか」
「いや、ちょっと眠れなくて」
紺野は白い顔で薄く笑った。
「すみません、俺、勢いで来ちゃって」
「いいんだ」
「……」
慎はたった今、母から聞かされた話をぼんやりとする頭で反芻していた。
母は父と出逢う前に、店の客で妻子ある男と関係を持っていた。母が妊娠した時、男は金を渡して母の前から姿を消した。
そして母は父と出逢った。そして父に拾われた。それが話の全てだ。
慎は自分の身をどこに置けばいいのかすら判らなくなっていた。あの寮で目覚める時みたいに、非現実をさまようような心許ない感覚だけが、今の慎を包む全てだ。
「いつから、知っていたんですか」
「君の父さんと親しくなってから、しばらくして」
慎は口を開き、だが何をどれだけ訊けばいいのかも判らず、混乱のまま再び口を閉ざした。
紺野もまた、痛ましげな目で言葉を探しているようだった。
「結局、俺だけが空回りしてたってことか」
「……」
「俺には、あなたたちを引き裂く権利なんかなかった」
「慎君、それは違う」
「違わない。元々他人だったんだ。母親が取りすがって、お情けで一緒にいて貰っただけだろ。家族ごっこしてただけじゃねーか。籍を入れてたって、それで父を縛れるわけじゃない。そんなのはただの形でしかない。最初から他人なんだよ」
吐き棄てながら、自分の言葉に傷ついている。惨めで、悔しくて、滑稽だった。
「何故、言わなかったんですか。あの時それを言っていれば、」
少なくともそれは、二人が別れることを避けるための切り札になったはずだ。
「大人三人でさんざん勝手なことして、勝手に俺を気遣って、勝手に答えを出して、……結局ぜんぶ俺のせいかよ。俺のせいであんたたちは、」
「違う、そうじゃない。言わなかったのは、それがあのひとの意志だったからだ。君を、本当の息子だと思っていたから、言う必要がないと思ってたんだ」
慎は紺野の言葉を空々しい気持ちで聞いていた。今さら父親の情を諭されても惨めになるだけだ。
「君を殴ったあの夜、この部屋でずっと、彼は自分の右手を見つめていた。……本当に馬鹿なことをしたと思ったよ」
「……」
「済まない、って彼は言った。それだけだった。彼が気持ちを決めたのが判ったから、僕も頷いて、あのお願いだけをしたんだ。あとは夜明けまでずっと僕を抱いていてくれた。朝起きたら、もう彼はいなかった。テーブルの上に鍵とビールの空き缶だけが置いてあった。あんなにここで過ごしたのに、びっくりするくらい、ここにはあのひとの物が何もなかったんだ。普段からそうしていたんだと思う。何の痕跡も残さないように。いつか去っていく日のために」
紺野は弱く微笑んで自分の手を見つめた。
「さっき君は、お母さんがお情けで一緒にいてもらったと言ったけど、それは僕の方だ。多分、愛していたのは僕だけだった」
「それは違う」
自分でも驚くほど強い声で言っていた。
紺野がハッと顔をあげる。
「父は確かに、あなたを愛していたはずだ」
「……どうして判る?」
「あなたと別れたからです。一番大切なものだから、手放した」
紺野の瞳が揺れた。
「どうでもいいなら、あなたを侮辱した俺を殴ったりしない。父に殴られたのは、後にも先にもあれ一回きりです。咄嗟の反応だから本音が出る。――親父は本気だった」
紺野は潤み始めた目で、言い募る慎をしばらく見つめた後、ふっと視線を横に逸らせた。
「おかしいな、君に慰められるなんて」
それから手のひらを額にあて、テーブルのうえに両肘をついた。
「……ありがとう」
慎はかすかに震えるその細い肩を、言いようのない悲しい気持ちで見つめていた。
紺野に対する怒りや憎しみは、慎の心から跡形もなく消え去っていた。ただ、重く、深い悲しみだけがあった。
紺野の背後に見える、寝室と思しき部屋のベッドの脇に、父の遺骨が見える。
再び一緒に眠る日が、こんな形になるなんて、どうして彼らに想像できただろう。
慎は力の抜けた身体を無理やり引き上げた。
「帰ります」
紺野は無言で頷き、慎を見送るために緩慢な仕草で立ち上がった。
「遺骨はもう少し、預かっていてください」
玄関で靴を履きながら、慎は言った。
紺野は微かに笑んで頷いたが、次の瞬間フラリとその身体が傾いだ。咄嗟に慎が受け止める。思った以上に細い身体に、激しく胸を衝かれた。
「すまない……」
紺野は眩む目を押さえるように、慎の胸で浅い呼吸をした。
「ごめん、少しだけ。人の体温は、久しぶりで」
「……」
「君は本当にあのひとに似てる。雰囲気も仕草も、胸の広さも。……すごく似てるよ」
慎は突き上げる痛みに耐えかねて、紺野の肩を強く抱いた。
こんなことをしてはいけないし、言ってもいけないと判っていた。
けれど――。
「これは父の腕です。父が、あなたを抱き締めているんです」
紺野の肩がビクリと震え、耐え切れなくなったかのように微かな嗚咽が漏れ出した。
細い肩。小柄な身体。清潔なシャツの匂い。
父はどんなにか、このひとを抱き締めたかっただろう。
気が遠くなるほどの長い間。
死ぬその瞬間まで――。
「また来ます」
そう言って紺野の身体をそっと離すと、慎はもうその顔を見ることもできず、ドアを開けて外に出た。
閉まったドアの向こうで紺野が崩れ落ちる気配がして、すぐに泣き声が聞こえてきた。
それはすぐに引き裂かれるような慟哭に変わった。
あまりにも悲痛で、憐れで、底なしの孤独を思わせ、慎はたまらずに駆け出した。
階段を駆け下り、急こう配の坂を、膝の関節を鳴らしながら転がるように駆け下りた。
頭がグラグラと揺れる。
本当にどうしようもない。
何もかも、どうしようもない。
こういうのを「絶望」と呼ぶのだ。
今初めて慎は、その取り返しのつかなさを嫌というほど味わっていた。
父が死んだということは、そのくらいどうしようもないことなのだった。
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