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慎は紺野に会った日の週末、雪弥を外に誘い出した。
雪弥は驚いたようだったが、黙ってついてきた。
慎が選んだのは在来線の数駅先にあるイチョウの紅葉が有名な公園だった。
「この前は、すまなかった」
公園のベンチに座ると、慎は雪弥から少し目を逸らして言った。
雪弥も慎から少しだけ離れて隣に腰を下ろす。
「オレも…ごめん。宝井を苛々させてるのは判ってるのに、うまく言えなくて、……あんな、恥ずかしいことまでして」
雪弥の淫らな姿を思い出し、慎はそれを振り払うようにぎゅっと拳を握った。
うつむく雪弥の、グレーのパーカーから伸びる白い首が、また少し細くなったようでチリと胸に痛みが走る。
雪弥は珍しく眼鏡をかけていた。透明感のある繊細な横顔に、慎は束の間見惚れる。
人はその時々によって顔を変える。あの夜の泣き顔も、今こうして慎に見せる静かな横顔も、どちらも雪弥という人間の顔なのだ。
それは紺野や父、母にもきっと同じことが言えるのだろう。そして慎自身にも。
だから人は人に惹かれる。もっと知りたくなって、もっとそばに行きたくなって、もっと触れ合いたくなる。
飽くことのない想い。それがいつしか愛に変わる。
「あんたは、何も悪くない。俺が不甲斐ないだけだ」
雪弥が顔をあげ、探るような目を慎に向けた。その髪に金色の葉がヒラヒラと舞い落ちる。
ふり仰げばイチョウの木々の梢が頭上を覆い、温暖に降り注ぐ光を受けて黄金色の葉っぱがキラキラと眩く揺れていた。目の前にも金色の絨毯が一面に広がっている。
互いの存在に意識が向き過ぎていて周りの景色にも気付けなかったことに苦笑してしまう。
「オレ、弁当作ってきたんだ」
「え」
「せっかく宝井が誘ってくれたから」
そう言って雪弥は肩に掛けていたバッグから紙袋とマグボトルを取り出した。紙袋の中身はサンドイッチと卵焼きとソーセージだった。
「急だったから有り合せになっちゃったけど」
そう言って雪弥は慎にウェットティッシュで手を拭かせるとサンドイッチを手渡した。
「ずいぶん用意がいいな」
慎は思わず笑みをこぼし、受け取ったそれにかぶりつく。
雪弥も笑いながらサンドイッチを頬張った。
「誰かとこうやって、外で弁当食べるのが夢だったんだ」
「?」
「家族でピクニックとかお花見とかしてるのを見ると、楽しそうでいつも羨ましかった」
「……そうか」
「それが宝井と一緒に、こんな奇麗な場所で食べられるなんて、もう思い残すことないよ」
「――なんだよ、思い残すって」
「それだけ嬉しいってこと」
雪弥は本当に嬉しそうにサンドイッチを平らげ、ボトルから熱い紅茶を紙コップに注ぐと慎に手渡した。
「サンキュ」
「ぜんぶ食べていいから」
雪弥はそう言うと立ち上がり、落ち葉の中をゆっくりと歩き始めた。色の白い雪弥は金色の世界に淡く溶け込み、とても綺麗だった。
慎はカップを唇にあてながら、その儚く、愛おしい姿をじっと見つめた。
数十年後、雪弥はこの世界からいなくなるだろう。それは自分も同じだ。そして二度とこんな風に言葉を交わすことも、見つめ合うことも叶わなくなる。
それを思うととても不思議な気がした。同時に狂おしいほどの焦燥が胸にこみ上げる。
慎の目に何かを感じ取ったのか、雪弥は微かに不安げな眼差しで慎の元に戻ってきた。
「あッ」
枯葉に足を滑らせた雪弥を、慎がとっさに腕を伸ばして抱き留めた。ほとんど空になっていたカップが音もなく落ちる。
「ごめん」
「大丈夫か」
雪弥が慎の腕にぎゅっとすがった。その肩が細かく震えている。雪弥が何かを怖がっていることに初めて気が付いた。
慎はたまらずそのまま雪弥の身体をしっかりと腕に抱いた。
「ったく、あんたはいつも危なっかしいな」
慎はわざと軽口を叩き、雪弥の頭をポンと叩いた。
雪弥はまた慎を探るように見つめた。眼鏡をかけてきたのは、そのためだったのかと思うほどに。
「宝井……、オレは宝井といると、いつも楽しくて、嬉しくて、すごく安心する」
「……」
「だけど、今日はなんだか、すごく悲しい」
ドキリとして慎は思わず肩を揺らした。雪弥がそれに反応して、慎のセーターを強く握りしめる。
慎は強く、目を閉じた。
恋にしなければいいのではないか。
唐突にそんなことを思った。
このまま自分が雪弥に気持ちを告げなければ、それは紺野や父を裏切ることにはならないのではないか。そんな狡い考えが本気で慎をそそのかそうとする。
けれど、そんなのはただの茶番だとも判っていた。どんなに形でごまかしたって、心は欺けない。それはただ雪弥を苦しめ続けるだけだ。雪弥を受け容れられないのなら、もうこれ以上引き延ばすべきではない。
「――すまない、瀬野」
喉の奥から絞り出したような声で、慎は告げた。今度こそハッキリと雪弥の身体が揺れた。
「会うのは、これきりだ」
雪弥の目が大きく見開かれる。
「ほんとに、すまない」
雪弥が呼吸を忘れたように、ゆらゆらと揺れる瞳で慎を見つめ続ける。
「ど、して……オレが、汚れてるから?」
「違う」
慎は即座に否定した。
「でも宝井は、オレに触れなかった。キスはしてくれたけど、オレの身体には。……オレが今まで、流されて何度も‥」
「違う!」
やめてくれ。この場にふさわしくない、醜い感情に捕われそうで、慎はギリリと奥歯を噛み締める。
「いいんだ、オレを許せないんだって、ハッキリ言ってくれていい。オレが嫌になったって」
「そうじゃない、……そうじゃないから、駄目なんだ」
雪弥の混乱が手に取るように判って、慎は今すぐ撤回したい気持ちになる。
けれど必死にそれを抑えて言葉を探した。身勝手な話だと判っているからこそ、せめて雪弥の卑屈な思いだけは払拭してやりたかった。
「瀬野は汚れてなんかない。あんたは俺が今まで会った中で、一番素直で、一番優しくて、一番綺麗だ。本当にそう思ってる」
雪弥の目から、一筋の涙が零れた。
「でも俺は、あんたのそばにいる資格がない。どんなに望んでも、それは許されないことなんだ」
慎が吐き出す言葉を、雪弥は注意深く聞いていた。沈黙が悲しく流れる。こんな抽象的な言葉で雪弥が納得できるはずもなかった。自分が逆の立場だったら、相手をとことんまで問い詰めているだろう。
じゃあなぜ、キスしたのか、なぜ抱き締めたのか、なぜあの日、電車に乗ろうとした自分を引き止めたりしたのか。雪弥にはいくらでも慎を詰る言葉があったはずだ。
けれど雪弥は結局、慎を一言も責めようとはしなかった。ぎゅっと慎のセーターを掴んでいた指を、少しずつ、諦めるように解いてゆく。
「その方が、宝井がラクになれるなら」
「……」
「どうしても、それが宝井にとって必要なことなら、……わかった」
「瀬野」
「だけどオレ、宝井を忘れられないと思う。だから、想ってるだけなら、いいかな……?」
雪弥は柔らかに微笑んだ。すべてを受け容れる慈母のような純白の愛に触れて、慎の心の最奥が震える。
きっとこの先ずっと、雪弥以上に誰かを愛することはないだろう。
「宝井、お願いがあるんだ」
「……なんだ」
「オレの名前、呼んで。一度でいいから」
そう言って雪弥は、慎の正面に立ち、慎をまっすぐに見上げた。
慎は雪弥の可愛い小さな顔を、黙ってしばらく見つめた。慎をまっすぐに見つめる澄んだ瞳を、先の尖った小さな鼻を、形の良い唇を、艶やかな髪を、優しげな肩を、静かに見つめた。
「雪弥」
慎が心の全てを捧げてそう呼ぶと、雪弥は涙を湛えた目で心底嬉しそうに笑った。
「ありがとう。……今初めて、自分の名前を好きになれた」
そして雪弥は来た道をまっすぐに指差した。
慎はそれ以上何も言葉を見つけられず、頷いて雪弥に背を向けた。その瞬間、雪弥が小さく声を漏らしたのが判った。けれどもう振り向けない。
あの日に帰りたいと切実に思った。父と紺野のことを知らずにいられたら良かった。それが無理ならせめて、あの夜に戻りたかった。
電車の中で初めて雪弥に声を掛けたあの夜に戻って、知らない者同士に戻れたら、どんなにいいだろう。こんなに愛しいものを、わざわざ自分の手で傷つけるくらいなら――。
「……は…ッ」
ひきつるように喉が鳴る。それとともに冷たい空気の塊が激しく気道に入り込んだ。
時々こんな風に、息を吸え、と無理やりに促されるような感覚を覚えることがある。
慎は鈍色に沈んだ晩秋の空を、空虚な瞳でじっと見つめた。
(……雪弥)
がらんどうのような身体を満たすように、深く、深く息を吸った。
けれど空気の代わりに慎を満たすのは、雪弥への狂おしい想いばかりだった。
その日以降、雪弥と話すことはなくなった。目が合うこともない。言葉を交わすこともない。
けれどふとした瞬間、横顔に、背中に、視線を感じた。あくまでも密やかで、控えめで、けれど優しげな眼差しが自分を追っている。
そのことが慎をどうしようもなく喜ばせ、また苦しめ続けた。
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