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「よう、今夜つきあえよ」  十二月に入って最初の金曜日、仕事をあがっていつもの場所で手を洗っていると、私服に着替えた崎谷がやってきて、慎の背中を叩いた。  崎谷と食堂で夕飯を食べることはよくあったが、飲みに誘われるのは珍しかった。慎があまり人とつるむのが好きじゃないことを崎谷は知っているのだ。  だが慎もここ数日考えることに疲れており、気晴らしをするのもいいかと、その誘いをありがたく受けることにした。  駅前の居酒屋で乾杯すると、慎はビールのジョッキを一気に半分ほどあおった。 「お、いい飲みっぷり」  崎谷はからかい、慎の分まで料理を頼んでくれた。 「今日のハイネスも安定のサドっぷりだったな。俺、あいつ殺したいとは思わないけど、死んでくんないかな、とはいつも思ってる」  崎谷が週末の疲れに濁った目で言うと、慎はわずかに口の端を上げて笑った。  あれから雪弥はまた、ハイネスに呼び出されたりしているのだろうか。  他の誰かが雪弥に触れることを想像しただけで気が狂いそうになるのに、今の慎にはそれを咎める権利はない。  自分から突き放しておきながら、雪弥の心が自分から離れていくことを怖れている。想っているだけならいいかと訊いたその言葉にすがってしまいそうになる。  離れたって駄目だ。どんなに離れたって、この世の果てまで行ったって、雪弥は慎の心を占め続けるだろう。  会いたくて、触れたくて、あの寂しげな眼差しごと力いっぱい抱き締めたいと思う。 「おい、泣くなよ」  崎谷が唐突に言って、慎はぼんやりと崎谷を見た。 「……なんだよ、それ」 「さあな。ただ最近の宝井は見るに忍びない」  慎はしばしカウンターの木目をじっと睨み、それからまたビールをあおった。 「泣くかよ」  言いながら、目の奥が熱くなるのを感じた。 「おまえら、すごく似合ってると思うけどな」  崎谷が珍しくしんみりと言った。慎の肩が微かに揺れる。相変わらずの千里眼だ。今夜ここに誘ったのも気まぐれではないのだろう。  目敏いくせに、土足では踏み込まない。慎は崎谷のそういう所をとても気に入っていた。 「俺は、……瀬野が好きだ。多分、この先もあいつ以上に誰かを好きになることはないと思う」  慎は空になったジョッキの底をじっと見つめて言った。 「それ、本人には言ったのか」  慎は黙って首を振った。 「なんで」 「駄目だからだ」  崎谷はしばらく何をどう訊こうかと考えているようだったが、結局口を閉ざした。 「ただ、知っておいて欲しかったんだ。誰か一人だけでも、俺が瀬野を愛したってことを、知ってて欲しかった」 「……そうか」  それからしばらく無言で飲んだ。カウンター席で良かったと慎は思った。 「俺さ、こう見えて、昔は結構いいトコのボンボンだったんだよね」  崎谷は枝豆のさやに噛みつきながら、唐突に言った。 「地元でも結構有名な金持ちでさ。でも高校のとき親父が派手な詐欺にあって会社が倒産。騙した相手ってのが、親父の高校時代からの親友でさ、もう家の中も目茶苦茶で、親父も廃人みたくなっちまうし。面白いように人が去って行ったね。つきあってた彼女も離れていって、俺はもう誰も信じないと思った」  慎は思いがけない告白に目を瞠る。  だが崎谷は重い話の割に、明るい表情で悪戯っぽく慎に笑った。 「で、この工場へ来て、宝井を見かけて、なんだ、俺より暗い顔したヤツがいるな、って気になってさ。どういうヤツなんだろうって思ってたら、ある日、お前を駅で見かけたんだ。すげえ焦って階段上ってて、どこ行くんだろうって見てたら、大荷物抱えたばあちゃんが反対に階段を下りていくわけ。よたよたしながら。あ~あ、大変だって、それ見てたら、何故か宝井が引き返してきて、時計気にしながらそのばあちゃんの荷物持ってさ、支えながら階段を一緒に下りてやるの。顔はめんどくさそうなのに、とことん親切でさ、俺それ見て笑っちゃった。なんかもういいかなってそのとき思っちゃったんだ。裏切られて腐ってたことも、なんかもう全部、どうでもいいような気がしてきて。で、それから宝井は俺の癒しになったわけ」 「なんだ、それ」  慎は苦笑した。そんなことがあっただろうか。まるで憶えていなかったが、多分そのときの自分は、母との待ち合わせ場所に急いでいたのだろうと思う。それ以外に駅で急ぐ理由がないからだ。  自分からは誘わなかったが、母に呼ばれれば慎は断らなかった。そして母をあの寂しげな喫茶店にひとり待たせるのが嫌で、慎はいつも気が急いていたのだと思う。  けれどいつでも母は慎より早く来ていて、あの気弱な笑みを見せるのだった。 「同じように瀬野のことも気になってた。あいつは出来る限り目立たないようにしてた。誰の目も見ようとしなかったし、誰とも喋ろうとしなかった。けど、あの日、食堂でお前を見て笑ったろ? あれ、ほんとにグッと来た。あんな風に笑えるんだって、すごく、なんていうか、綺麗で、……うまく言えないけど、究極に癒されたんだよ」  崎谷はもどかしそうに言ったが、慎には崎谷の言うことがとてもよく解った。 「だから、そんな二人が一緒にいると、俺は結構、…ていうか、かなり嬉しかったんだけど。……そっか、もうあの顔も見れないのか」 「……」 「残念だな」  店員がジョッキを下げに来ると、崎谷はビールのお代わりを頼み、ついでに刺身の盛り合わせと串カツを追加で注文した。  それから二人はしばらく関係のない話をした。崎谷はくだらない与太話を次々と繰り出しては慎を低く笑わせる。  飲んでも飲んでも酔わないまま、慎は杯を重ねた。  崎谷はすでにとろんとした目をして、カウンターにペタリと片頬をつけている。 「……なあ、どうしても駄目なのか」  眠る手前のような声で、崎谷が不意にまた訊いた。  慎が黙って頷くと、 「そっか……」  ザンネンだな、と崎谷はもう一度呟いて、真っ赤な顔のまま目を閉じた。        
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