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陰鬱な表情で伊藤は自宅に入る。 リビングから顔を出す女性。伊藤の母親だろう。 母親は「おかえり」と恐る恐るといった様子で伊藤に言う。 伊藤は母親の声を無視し、階段を上がって行ってしまう。 母親はその様子を心配そうな眼差しで見つめている。 自室だろう、勉強机とベッドとタンスが置かれた部屋に入る伊藤。入ってすぐに持っていた登校用らしきカバンを下ろし、重いため息を吐く。 部屋の窓に顔を向ける伊藤。映るのは隣の家。叶多の家だ。 部屋のドアからコンコンとノックをする音が聞こえる。 伊藤はドアに向かいあって立ち、身構える。 「祐也」 扉の向こうから母親の声が聞こえる。 「祐也、何か、言いたいこと、あるなら…、お母さん聞くよ?」 その言葉を聞いた伊藤、勉強机の上、手の届く距離に置いてあった教科書をドアに投げつける。 「なんだよ!言えよ!!」 伊藤はドアに向かって叫ぶ。 「あの…、警察が来たの。でもお母さん、信じられないから…。だから、言って、祐也…本当のこと、」 「やってねえって言ってんだろ!違うやつがやったんだよ!」 「そうなの?本当?あなたじゃないのよね…?本当のこと言って?」 涙混じりの声で母親が言う。 伊藤はカバンを持ち上げ、ドアに向かって投げつける。 「俺は関係ない!!!死ね!くそババア!!」 そう言い放った伊藤はその場に力をなくしたようにしゃがみ込んでしまう。 夜。しかし、伊藤は部屋の電気も付けずにベッドの布団をかぶっている。ドアの向こうから母ともう一人、父親だろうか、話し声が響いてくる。伊藤は塞ぎこむように耳を布団で塞ぐ。 伊藤は窓の外に目を向ける。 カーテンも閉じていない窓、向こうに明かりの突いた窓が見える。 伊藤は這うようにして窓の前に近づき、窓を開ける。 隣の家との幅は2メートルほどとかなり近い。 机からペンを一本つかみ、隣の家の窓に向かって投げる。 カン、とペンが窓ガラスに当たり、乾いた音が鳴る。 弱弱しく伊藤がまたペンを握り、同じように投げつける。 また何か投げれそうな物を手にしようとした伊藤。カラカラと、外から音窓を開く音が聞こえる。 伊藤が急いで顔を上げると、隣の家の窓から叶多が不思議そうに顔を出していた。 「伊藤くん?」 目があった二人。叶多は言う。 「そっち入らせて、」 声をつまらせながら伊藤は言う。「え?」と叶多は拍子抜けした様子で言う。 「早く、」 伊藤の切羽詰まった様子を察したのか、叶多は窓を開けたまま何か思いついたように「マル」と呼ぶ。 叶多の家の窓から数本の人間の大腸のようなものが数本、意思を持ったように蠢きながら伊藤の窓に向かって伸びていく。伊藤は部屋に入り込んだそれを手で掴む。 それは伊藤の体に絡みつき伊藤の体を軽々と持ち上げると、叶多の部屋へと連れて行く。 伊藤が部屋に入ったところで、叶多は窓をそっと締める。 叶多の部屋には体の小さい柴犬が一匹、ベッドの上に丸まって眠っている。 「犬、飼い始めたの?」 伊藤が言う。 「ううん、マルだよ」 叶多は言う。 「今日、なんで学校来なかったの、」と伊藤は声を低くして聞く。 「行く、…行く理由が、ないから」 「のんきに犬なんか飼い始めて」 「戻ってきただけだよ」 「あ?」 「マルが、僕の家、治してくれたんだ」 「…学校で人殺し呼ばわりされた」 叶多の言うことに耳を貸す様子なく、伊藤は苦しそうに胸を抑える。 「俺、殺してないよな」 「うん、ころしてないよ」 叶多は頷く。 「じゃあ早く、警察に言えよ」 伊藤は膝を抱えるように床に座り込む。 「言えよ、早く」 「伊藤くん、大丈夫?」 叶多は心配そうに言う。 伊藤は膝を抱えるように床に座ったまま動かない。 「警察に行けよ…佐藤」 「ううん、マルに、伊藤くんに会えなくなるから。言わない」 「ふざけんな」 「じゃあ、伊藤くんのこと話して一緒に刑務所に入らせる」 「は、…なんでだよ、どうして、…なんでなんでなんでなんでっ、」 伊藤は叶多に掴みかかる。 「伊藤くん、今、僕に頼るために来たんだよね?会いに来てくれたんだよね?」 「い、伊藤くん、僕、伊藤くんの事好き、」 「僕、マルと離れたくない、今のこの家から離れたくない、伊藤くんとも離れたくない、だから警察に言わない、誰も言わない、」 「なんだそれ、無責任だ、自分で言って、…大丈夫って、お前、言ったじゃん、言わないって、俺は悪くないって言っただろ!!」 「伊藤くん、殺して無いんでしょ?どうして怒るの?僕が殺したのに、みんな。それじゃ、怒る理由があるみたい、伊藤くんが殺したみたいに見えちゃうよ、」 叶多は可愛そうな物を見る目で伊藤を見つめる。 「なんで、お前、そんな平気なの…?学校でもそうだ、原に便所に顔を突っ込まれても、殴られても、教室で服脱がされて…」伊藤は声を震わせ、言いづらそうに口を紡ぐ、そして「こいつ、いつか死ぬって思ったのに、死にそうな感じもない…。痛がってるけど、その後はスッキリした顔して過ごして、また原に殴られに行って、意味わかんない、気持ち悪いんだよ、」と続けた。 「伊藤くん、美術の先生わかる?」 「は?」 「僕、美術の先生と援交してたんだ」 叶多は平然とした様子だ。 「絵がうまくて良かった、幼稚園のときも小学生のときも伊藤くんはいつも僕のそばにいて僕の絵を褒めてくれたから。だから先生が寄り付いた。お母さんがいなくなって、お父さんが荒れて僕を殴ったときはいつでも部屋においでって庇ってくれた。嬉しかった。病気になったおばあちゃんの悪口を一緒に言ってくれた。嬉しかった。」 叶多は伊藤に近づく。 伊藤の前に立った叶多はゆっくり伊藤に近づき、体を密着させると伊藤の口に自分の唇を当てる。 伊藤は慌てて叶多を押しのけ、後ろに下がり距離を取る。叶多は眉を下げ、寂しげな顔をする。 「小学6年の今ぐらいの時期だった、お祭りの帰り、家に帰りたくないって、泣いてた僕に伊藤くんこうしてくれたの、覚えてる?」 叶多は照れくさそうにうつむきながら笑う。 「うっさい…」 伊藤は口をわなわな震わせ自身を否定するかのように首を振る。 「伊藤くん、あのときの僕可愛そうだったから、慰めようって思ったんでしょ?…嬉しかったのに、どうしてあれから僕と話さなくなったの?」 伊藤は怯えた顔をする。 「ああ、わかった、二人でチンコ触りあったことが恥ずかしいんだ。伊藤くんさあ、触ったら白いの出るってどこで教わったの?」 叶多はくすくす笑う。 「うるさいっ死ね!!」 伊藤は叶多の顔を殴る。衝撃で叶多は床に倒れ込む。 「死ね!死ね!死ね!死ねぇっ!!」 「…伊藤くん、殺すの?殺したら、伊藤くんのせいになるよきっと、死体一緒に運んだでしょ?これでどうとだって言えるよ。伊藤くんに脅されて殺したんですって、毎日いじめられてて伊藤くんに命令されて、僕殺したんですって」 「俺だって、俺だって、警察に言ってやる、お前のこと、」 「ならその時は伊藤くんの手足切ってずっとここに閉じ込めるよ」 「適当言うんじゃねえよ!」 「マルがお腹空いたら、僕にとって伊藤くんはただの肉だよ」 伊藤は原と丹治を飲み込むマルの禍々しい姿を思い出す。 「あああっ!!クソッ!!」 「ああ、そうだ、それがいいや」 叶多は起き上がり、伊藤を床に組敷く。 「痛っ」 「伊藤くん、家にいたくないからここに、僕のところに逃げてくれたんでしょ。だったらここにいなよ、僕の家族になってよ」 「なに言ってんだよ!!キモいんだよ離せ!!」 伊藤は叶多の手から逃れようと悶えるが叶多の手はみちみちと伊藤の腕を握り込こんでいき、力が強いのか、逃れられない。 「ちょうどおかあさんがいなかったんだ。伊藤くん、僕のお母さんになってよ。お母さんは家にいない、お父さんに殴られる僕が可愛そうだと思ったから、そばにいてくれたんでしょ?ならいてよここに、伊藤くんまた僕を抱きしめてよ、可愛そうだと思ってよ」 「いやだ!!離せ!!」 涙まじりの声で伊藤は叫び、なんとか、叶多を押しのけると部屋の出入り口のドアに駆け込み、ドアノブをひねる、と、ドアノブが波打ち、マルと似た腸を丸めたような形になると、伊藤の手に腸が絡みつく、そのまま伊藤の皮膚に入り込み、根を生やすように侵食すると伊藤の手が徐々に赤く染まり、ドアノブと同じ腸を丸めた形に変わっていく。驚き、戸惑い、叫んだ伊藤、ドアノブから手を引き剥がそうと後ろに反る。 床に倒れそうになった伊藤を叶多が抱き止める。 伊藤はドアノブを掴んでいた手を顔の前に掲げ、泣いている。 伊藤の右手は手首から上が風船が破裂した後のように少しの皮を残して無くなっ ている。 「て、…手…」 伊藤が弱々しく言う。 叶多が慌てた様子で伊藤の手をそっと握り、安心させるように伊藤の体を抱きしめる。 「ああっ、ごめん伊藤くん、マルが食べちゃったんだ、」 「たべた?…おれの手、…食われたの?」 「マルがね、この家そのまま食べたんだ。大丈夫だよ伊藤くん、本当は痛くないんだ。マルに食べられることは痛いことじゃない。怖くない、怖くない、」 叶多は震える伊藤の頭を撫で、頬に何度も唇を当てる。 伊藤は涙で赤くなった目をドアに向ける。ドアは先程伊藤が暴れてもぴくりとも動じていないように見える。 伊藤は右手を無くした手首越しにドアをしばらく見つめると、力が抜けたようにだらりと手を下ろした。
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