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俺の腕の中で香織さんが首を左右に振る。そして、ふふふっと笑った。
「瞬くんをかわいがる真也くんは、もっとかわいかった」
「何だよ、それ」
「ごめん、ごめん」
少しの沈黙。香織さんの肩を抱いたまま、俺は夜空を見上げる。移住前に住んでいた神戸と同じ兵庫県かと思うほど、たくさんの星が見えた。そのうちのひとつは、空へ帰った子どもなのだろうか。
「まだ胎動すら感じる前の流産だったから、あたしだってさすがに吹っ切れてるわよ。でもね、あたしたちが親だった頃の幸せな気持ちを、久しぶりに思い出したから」
「そっか。俺は不安だったな」
我が家は香織さんが稼ぎ頭だ。だから日中の子育ては俺がすることになると話し合っていた。だが俺は、こんな身体で子育てができるのか不安で仕方がなかった。
「真也くんなら離乳食もお手の物だと思ったんだけどな」
「買いかぶりすぎ」
「あぁ、でも、あの頃幸せだったなぁ」
「うん、俺も。不安だったけど、幸せだった」
いなくなった子どもを思い出すと、今でも胸が縮まる。だが、香織さんとこんなにも穏やかな気持ちで子どものことを話せる日が来るなんて、あの頃は思いもしなかった。
無風で蒸し暑いはずなのに、さぁっと涼しい夜風が吹き抜ける。もしかしたら、子どもも側にいるのではないか。俺はそう思ったが、科学者である香織さんに言うのはやめておいた。
だが。
「あっ、今ちょっと涼しかったね。きっと、側に来てあたしたちの会話を聞いているんだわ」
「香織さんもやっぱそう思う?」
「うん。だって、あたしのお腹にいたんだもん」
「そっか。やっぱ母親には負けるな」
また涼しい風が吹き抜ける。俺たちは身を寄せ合いながら、我が子の気配を感じ続けた。
──父さんはこれからも母さんを大切にするからな。
俺はそう誓い、再び視線を夜空に移す。
すると、一筋の光が満天の星空を縫うようにして流れていった。
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