【第一話】ビオラ

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* 「おはようございます」  俺たちは車から降りた晴美さんに向かってあいさつをする。晴美さんもにこやかにあいさつを返してくれた。 「おはようございます。今日もいい天気ね」  晴美さんはクリニックの看護師。五十代前半で、今年社会人になったばかりの息子さんを筆頭に三人の子どもの母親だ。出産を機にしばらく専業主婦でいたが、末の娘さんが高校生になった今年度から看護師に復帰し、クリニックで働いている。晴美さんご本人はブランクがあるからと恐縮しまくりだったが、そんなことはみじんも感じさせないベテランっぷりを発揮しているというのが、香織さんの評価だ。  晴美さんは、プランターに視線を下げて満足そうに微笑んだ。 「わたしがプレゼントしたビオラ、すくすく育ってるじゃないですか」 「毎日、水をやってるだけですけどね」  俺はそう返事をする。 「それが一番大切で、一番難しいことなの」  もともと対岸の神戸市に住んでいた俺たちが移住先として選んだこの瀬戸内海最大の島は、花の島として名高い。かつて花の博覧会が開催された舞台であり、島内には花の名所がいくつもある。  いわばこの島のこの集落にとってよそ者といえる俺たちは、受け入れてもらえるのかが大きな心配の種だった。そこで香織さんは看護師として採用を決めた晴美さんに助言を求めた。そして「花が好きな人に悪い人はいないわ」という名言とともに贈られたのが、これらのプランターだったというわけだ。  これまで植物の栽培には全く興味のなかった俺たちが世話をしても、枯れることなく次々と花を咲かせてくれるビオラ。ここに移住してきてもう少しで半年になろうかという今になって、俺はようやくわかったのだ。ガーデニング初心者が最も育てやすいビオラを贈ってくれた晴美さんの歓迎の気持ちを。  そして、ビオラが美しい花を咲かせるのに比例するかのように患者でにぎわっていくクリニック。それでも前は総合病院でバリバリ働いていた香織さんに言わせると、ここでの診療は時間的にも心情的にも余裕があるという。  さて、『ますいペインクリニック』は麻酔科と整形外科で構成されている。院長であり麻酔科医である香織さんのほかに、男性医師がひとりいる。副院長であり整形外科医の長内(おさない)(さとし)先生だ。  香織さんはクリニックを開業するにあたり、麻酔科だけではいけないと判断した。それはほかでもない俺のためだった。  交通事故によって脊髄を損傷し、車椅子生活となった俺は、整形外科での受診を続けている。移住する前からのかかりつけであり、かつ香織さんの勤務先であった総合病院には通えなくなってしまったため、香織さんは一緒にクリニックをやってくれる医師を探した。そして人脈豊富な同僚医師の仲介を経て見つけた長内先生が、俺の新たな主治医になってくれたというわけだ。  ほかにもクリニックのスタッフには看護師や理学療法士、事務員がいるが、そのあたりはおいおい紹介していこう。
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