白百合 散ル

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白百合 散ル

矯子の幼い頃からの鬼門であった叔母の久美子を、小百合が追い払ってしまった奇蹟の様な一件から。 自分と同い年の美しい継母(ままはは)に対する矯子の見方は、それまでとがらりと変わってしまった様である。 様である、というのは、矯子自身それをはっきりと認められるほど、素直な心持ちでは無かったのだ。 その代わり、以前の矯子とは明らかに違っている事を、彼女の行動が示した。 澄み切った初秋の陽射しがダイニングに差し込む朝。 女中が湯気の立つ朝食を給仕する中、矯子の父である碓氷賢一は朝刊に目を通していた。 実業家である彼にとって、政財界の動向を把握しておくのは重要な日課だ。 だが、それに夢中になるあまりに新妻(にいづま)の存在を忘れるという事は無かった。 パンやスープの皿を並べ終えた女中に礼を言った後で、楚々(そそ)と椅子に腰掛ける小百合に微笑みかける。 「さあ、頂くとしようか」 「はい」 彼女も、愛らしい笑みでそれに(こた)える。 食前の祈りの為に、小百合がほっそりとした指を組み合わせた時。 ダイニングの入り口に、賢一は思いも掛けない姿を見いだした。 それは、女学校のセーラー服に身を包んだ一人娘である。 「矯子」 父と小百合の驚きに満ちた眼差しに、矯子は眩しく目を逸らした。 よそ目には不貞腐れているとでも映りそうな表情を、矯子自身恥じた。 照れ隠しでも笑ったりできない自分が嫌だが、ここまで来て引き返す事はできない。 「あたしも、御一緒ではお邪魔でないかしら」 無論、広々としたダイニングの席は有り余っている。 だが、果たしてそこに自分の居場所があるか、矯子には心もとなかったのだ。 「邪魔だなんて、とんでもない。ほら、父さんの隣においで」 父はいそいそと、自分の隣の席を矯子に勧める。 そこに腰を下ろして、矯子は斜め向かいの小百合を上目遣いに見やった。 にっこりと矯子に笑いかける小百合に、胸が高鳴る。 小百合は一度は下ろした両手を組み、つつましやかに目を閉じた。 慣れた様子で(なら)う父に続いて、矯子もぎこちなくそうする。 小百合の澄んだ声が、聖堂に満ちる賛美歌の如く清らかに響く。 「父よ、あなたの(いつく)しみに感謝してこの食事を頂きます。ここに用意されたものを祝福し、わたくしたちの心と体を支える糧としてください。わたくしたちの主、イエス・キリストによって」 いけない事とは知りつつ、矯子はこっそりと目を開けて小百合を盗み見た。 濁りの無い朝の光の中で一心に祈りを捧げる乙女は、荘厳な聖母の姿を思わせた。 その声に耳を傾けていると、神を信じていなかった矯子の胸にも、(きよ)いものが溢れてくる。 アーメン、と(おごそ)かにその祈りを締めくくって、小百合はぱっと顔を上げる。 「それでは、お食事にいたしましょう」 窓辺に生けられた白百合の花が、ひらりと朝風に揺れた。
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