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その清らかな笑みに、身の毛がよだつ。
何故、こんな状況で優美高妙とした笑みを浮かべていられるのだ。
目の前にいるこの娘は、本当に人間なのだろうか。
背筋に走った戦慄は、異形に対する恐れであろうか、あるいは―――聖なる存在への畏怖であろうか。
小百合の袖が頬をぬぐう感触に、矯子の体はびくりとこわばっていく。
自分の服が汚れるのもお構いなしに、小百合はまず矯子の顔の汚れを落とし始めたのだ。
「申し訳ありません、わたくしの不手際です。矯子さんがお気になさる事はありませんわ。今、お召し替えを持って参りますわね」
着替えが必要なのは、小百合その人だろうに―――
エプロンの裾も軽くひらりと翻し、部屋を後にしようとする小百合を矯子は慌てて呼び止めた。
「待ちなさいよ!」
小百合はぴたりと歩みを止め、優雅にこちらを振り返る。
「どうかなさって、矯子さん?」
顔には、矯子の吐瀉物と聖母の微笑みを張り付けたまま。
この気味の悪さを、どう言葉にすれば良かろうか。
「あたしはあなたの顔に反吐を浴びせたのに、何故腹を立てたりしないのよ。他人の吐いたものに、良い気持ちがする筈が無いじゃない」
「まあ、矯子さん」
聖母の笑みは白百合の花の如く、より清らかに、より美しく小百合の顔に咲き匂う。
矯子の吐瀉物はおろか、この世のありとあらゆる汚れでさえその笑みを消す事はできぬと言わんばかりに。
「我が子の粗相を厭う母が、一体どこにおりましょう?」
その宵、玄関の車寄せにアメリカ渡来の自動車が止まる気配がすると、矯子は女中が出迎えようとする横をすり抜けて向かう。
運転手に恭しくドアを開けられて車を降りた父は、タイル張りの玄関先に立つ娘を見てはたと足を止める。
「お帰りなさいませ、お父様」
いつもの仏頂面のまま、矯子は父への奉迎の言葉を述べる。
「矯子。もう、起き上がってもいいのかね」
長い一日の勤めを終えた父の表情には、疲労が滲んでいる。
けれど、その中に娘の体調を慮ろうとする穏やかさが含まれていた。
小百合の手で着替えさせられた新しい寝間着の上に薄いショールを羽織った矯子の姿に、父は目を丸くしていた。
こうして一人娘がわざわざ父を出迎えるなんて、碓氷家では滅多に無い事なのだから。
「あたし、お父様にお話があってお待ちしておりましたの。―――小百合さんの事について」
矯子とて、何の気無しにこんな真似をした訳ではない。
小百合の名が登場した事に対し、父は銀縁眼鏡の奥の目に驚きをほの見せた。
だが、脇に立つ女中に鞄と帽子を預けると、矯子の肩にそっと手を置いた。
「書斎においで。小百合さんのお耳には、入れたくない事なのだろう」
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