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電灯の明かりが、書斎のクリーム色の壁に柔らかな光を投げかけていた。
「そこにお掛け」
父が指さしたのは、ずらりと本が並べられた書棚の脇にある、布張りの椅子だった。
きっと父は、普段はこの椅子に身をもたせて本を読むのだろう。
矯子がこの書斎に足を踏み入れる事は滅多に無い。
父がこの書斎の中で過ごすのは、大抵一人になりたい時と決まっているからだ。
お茶も、女中に頼まず自分で持っていく。
書斎にいる父を訪ねない事は、親子の間の暗黙の了解となっていた。
ここでなら、小百合にも聞かれずじっくり話ができると父は踏んだのだろう。
マホガニーのデスクの上には、木製の写真立てが置かれている。
その中でおっとりと微笑んでいる和装の婦人は、他ならぬ矯子の産みの母である淑子だ。
レースのカーテンが夜風に翻る窓の外を眺めながら、父が口を開く。
「小百合さんは、矯子に良くしてくれるかね」
「ええ、それはもう。良すぎるくらいに」
矯子の顔に笑みは無い。
不意に、今頃は私室の寝台の横に跪ずき、無心に祈っているであろう彼女の事が思い浮かんだ。
眠る前の長い時間を、彼女は神への祈りに捧げる。
それが、彼女の日課であるらしかった。
彼女に用事のあった女中が声を掛けても微動だにしないので、呆気に取られたという。
朝は忠実な新妻らしく玄関先で父を見送る彼女も、夜には祈りの為に自室に籠って出てこない。
一体、彼女は何の為に祈っているのだろうか。
彼女を祈りに駆らせてやまないものは、何なのだろう。
「実の子でもない、それも御自分と同い年のあたしにとても尽くしてくださいます。これからは、あたしの母になるのだと仰って。あんな献身的な方、見た事がありませんわ」
顔を上げ、目の前の父を訝しく見据える。
「何故、お父様は小百合さんを妻として選ばれましたの。若く家柄の良い娘ならば、世間に五万といるではありませんか。よりにもよって、何故あたしの同級生であったあの方を」
本当ならば、声を荒げてその疑問を父にぶつけたかった。
だが、そんな場面を写真とはいえ亡き母に見せたくはなく、矯子はどうにか自分を抑えた。
「高貴な真宮伯爵家の恩恵にあずかりたかったのですか。けれど、お父様ならばもう少し良い縁組があったでしょうに。没落華族の娘を金で買い、世間から物見高い目で見られる様な真似をなさらずとも」
「矯子」
普段、矯子の為す事には決して口を出さない父が、明らかに低く静かな声で娘をたしなめた。
「その言い方は、小百合さんを辱しめる事になる」
「……申し訳ありません」
だが、今度は肩を落とした矯子を慰める様に、優しく娘の頬に触れる。
「お前がそう思うのも無理は無い。だけど、父さんは家柄を目当てに小百合さんを娶ろうした訳ではないよ。小百合さんその人に、父さんの妻、矯子の母になってもらいたいと結婚を申し込んだ。どうか、それを分かってはくれないか」
矯子は、いやいや頷いた。
そんな話を聞かされても、やはり小百合をお母様と呼ぶ気にはなれない。
「お父様は、小百合さんのどんな所を見初められましたの」
矯子の問いかけに、父は机の上にある母の写真に目を向けた。
「いずれ、お前にも分かる時が来るさ」
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