白百合 来タル

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生みの母が亡くなったのは、矯子が物心ついて間も無い頃である。 儚い笑みを浮かべた瓜実顔(うりざねがお)を、幼い矯子の胸に春霞(はるがすみ)の如く淡い面影として(のこ)したまま、世を去っていた。 矯子と同じく、(やまい)からは逃れられぬ身と生まれ出でた、蒲柳(ほりゅう)の質の人であった。 「御免なさいね。母様が丈夫でない身に生んだばかりに、これから先、矯子をつらい目に遭わせる事になってしまって……」 否応無しに体を(むしば)む病苦は、母とて並大抵で無かったろうに――― 矯子がその病室を訪ねるごとに、母は娘を胸元へと抱き寄せては、懺悔(ざんげ)の言葉を幾度と無く繰り返して、芙蓉の露に似た涙をほろほろと(こぼ)すのだった。 母はいつも、そのやさしい顔には似合わぬ冷ややかな消毒液のにおいを(まと)っていた。 そのにおいと共に、やるせない母の悲嘆(ひたん)が矯子を包む様であった。 父にとって子供は娘の矯子一人であった為に、母の死後は後添(のちぞ)えとの間に跡取りたる男子を、と周囲から持ち掛けられていたらしい。 けれど、父は後妻(うわなり)を迎えるどころか、成功を収めた男性に有りがちな浮いた噂一つ流す事は無かった。 一人娘の矯子に婿養子を取らせ、(もっ)て後継者に据えるつもりなのだろうか、との憶測(おくそく)もあったが、それも土台無理な話である。 花の一輪も咲かぬ朽木(くちき)に似た、こんな身では―――子を()すどころか、結婚生活さえままならない。 女は嫁いで跡取りの男子を生んでこそ一人前、という良妻賢母教育の温床である女学校では、どちらも果たせない矯子は、はみ出しものの様な存在であり、それも周囲から遠巻きにされる理由でもあっただろう。 長らく父娘(おやこ)二人きりの生活に慣らされていただけに、父が何故今さら、大枚を(はた)いてまで伯爵令嬢を妻に迎えようとするのか、矯子には及びもつかなかった。 結納金などと勿体ぶった言い方をしても、その実は困窮した伯爵家への融資である事は誰の目にも明らかである。 小百合に加え、父までもが何を考えているのか全く理解出来ず、矯子は言葉の通じぬ異国で一人取り残された様な、寄る辺なさを感じた。 掴み所が無さそうな父も、やはり実利主義者(プラグマティスト)であるのだろうか―――自身の老後を見据えて、跡取りを小百合に産ませようというのか。 頼もしい父、若く美しいその妻、年の離れた可愛らしい弟か妹―――その円満な家庭には、矯子の居場所なぞありはしないだろう。 けれど、全てどうでもいい。 小百合が何人子供を生もうが、矯子の知った事ではない。 かえって、(わら)ってやれるだろう。 聖母と崇められていた小百合も、所詮は人の身に過ぎぬのだと。 処女(おとめ)が男との交わり無しに子を身籠れるのは、聖書という御伽噺(おとぎばなし)の中だけだ。 聖母なんて、この世にいる筈が無い―――いたとすれば、それは偽りなのだから。 ただ、小百合が矯子の母親を名乗ろうとする事だけは、どうにも我慢がならなかった。 むしゃくしゃと机の蓋を勢いよく開けると、小さな紙片が白い(はね)を広げた胡蝶の如く納められていた。 つまみ上げて、紫のインク(うるわ)しい優美な筆跡を読んでみると 「白百合ヲ手折リタル成金ノ娘」 矯子はふんと鼻を鳴らしてそれを細かく引き裂くや、窓からぱっと投げ捨ててしまった。 はらはらと舞う様は、風に散りゆく桜か、波にさらわれる白砂か―――矯子もこうなってしまえたら良いのに。
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