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輪郭のぼやけた天井は、絵の褪せた灯籠の如き懐古と憂鬱を矯子に感じさせながら、ぐるりぐるりと回り続ける。
熱に浮かされて靄が掛かった様な矯子の視界に、一つの面影が現れた。
緑なす黒髪、柔らかな曲線を描いた頬、慈しみを結晶させたとも思われる潤んだ瞳、ふっくらと豊麗な紅の唇―――
朧気に霞んではいるものの、臈長けた女性の面差しである。
お母様かしら―――
夢枕に立ったのでも無い限り、亡くなった母が矯子の元に姿を現すなんて有りはしないのだが、その時の矯子はごく自然にそう思い解いていた。
高熱による不明瞭な思考のせいもあっただろうが、ベッドに臥せった矯子の顔をそっと見澄ます彼女の微笑みの、えも言われぬ円かな優しさが母を想起させずにはおかなかった。
「矯子さん」
紅の唇は花の揺らぐ如く綻んで、名を呼ばれた矯子の耳にも心地よい清音を生じる。
けれども、その声つきは記憶に残る母のそれとはどこか異なる、まだうら若い少女のものであった。
母ではない、だとしたら誰なのだろう。
若しや、あの世から聖母が御迎えに来たのだろうか。
聖母の御迎えだなんて、阿弥陀如来じゃあるまいし―――と自分でも思わない訳では無かったが、御姿のあまりに純麗な様といったら、それ以外に考えられない。
静やかにも明々と照らせる聖母の円光をも、矯子は彼女の背後に見ていた。
死に臨んだ今となっても、恐れや怯えといった感情はその片鱗も現れない。
矯子の胸を占めていたのは、凪いだ大海原の如く、どこまでも落ち着き切った安堵のみであった。
漸く何の面白味も無いこの世界に別れを告げて、お母様の元へ行けるのだ。
覚悟する如く瞼を閉じた矯子だが、汗ばんだ額にひんやりした手を載せられ、拍子抜けのあまり目を開けた。
「こんなに御熱があって、さぞ苦しかったでしょう。わたくしが居るから、もう大丈夫よ」
幾許の熱をその手に吸い取られ、晴れ上がった視界に映るのは、相も変わらず微笑む小百合であった。
矯子の頬は、羞恥の為に殊更熱く火照った。
よりにもよって、小百合をお母様や聖母と思い違えるなぞ、何たる愚かな真似だろうか。
こんな浅ましい世界に対する未練なぞ露ほどもなく、いつ御迎えが来ようと構わないつもりだったが、相手が小百合なら別である。
もし、今本物の聖母が矯子を迎えに来ようと、がなり立てて追い払ってやるつもりだった。
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