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「言っとくけど、今はいち子さん一筋だから」
「お、おう。そうでないと困る」
もう一度間に口をつけ、中身が空なのに気づく。
えへんえへんと無駄に咳払いをして廣木は、
「にしても、毎日のように昼飯どきになると顔出しやがって」
と、林を見た。そして、頭を下げた。
「心配させたよな」
顔を上げると、林がくすぐったそうな表情で鼻の頭をかいていた。
「そりゃ、まぁ……父親だから」
「……んだよ。同い年じゃん」
常務に対して怒っていた時はなんの抵抗なく林を父と呼べたのに、顔を合わせているとやっぱり照れくさかった。
「俺はさ。感謝してるんだ。家族が持てたこと。子供ができたこと。だから父親らしくするにはどうしたらいいか、ずっと考えてた……考えてる」
*
酒が入った廣木は、林に家まで車で送ってもらうことになった。
先に車に乗った林を追いかけるように玄関で靴を履く林を、いち子が玄関まで見送りにでる。
「そういえばさ。昔のことだけど」
と、廣木は母を振り返った。
「何?」
化粧を落とした母の顔は昔よりもずっと綺麗に見えた。林と結婚して良かったのだ、としみじみ思う。
「ガキの頃のピアノの発表会。いつもは母さんが来てたのに、一度だけ父さんが来たことあっただろ」
「あぁ……そうだったわね」
「なんで?」
答えずに夜の星を見上げた母に廣木はもう一度聞いた。
「なんであの時、母さんこなかったの」
*
家に帰ると、窓に灯りが見えた。
慌てて車を降りて玄関に駆けて行く廣木の背中に「じゃ、またな」と林の放った声がぶつかって転がる。
ドアを開けると「おかえりなさぁいっ」と長女が飛び出てきた。
長女を追いかけてよたよたと玄関のタイル張りのところまで素足で出てきた次女を抱き上げていると、三女を抱っこした妻がその後ろから姿を現した。
「帰ってたんだ……」
数日ぶりに会う自分の家族に廣木がうるっとなったことは否めない。
嫁は少し気まずそうにしながらも、
「廣木クンてば、私がお腹おっきいのに、お弁当とかサラッと頼んでくるんだもの。腹がたっちゃって。それをお義父さんに相談したら、一度離れた方が私や子供のありがたみが身に染みるからって……あ、言っちゃった」
と、ぺろっと舌を出したものだ。
久しぶりに賑やかになったリビングで腹の上に三女を乗せてあやしながら廣木は母との会話を思い起こす。
——なんであの時、母さんこなかったの。
と聞いた廣木に母はしばらく黙ってから、
「実はあの時、お母さんのお腹の中には貴方の妹が居てね……」
——でも、二人目を産むことにお父さんは承知してくれなくて。ギリギリまで説得しようとしたんだけど、結局病院で処置してもらったのね……。
寂しそうに笑った母の言葉が耳の中によみがえる。
「お父さんっていうのは、どんな状況でも家族を手放さないひとのことだと母さんは思うな」
オレもあいつの息子になったんだから。
父親しなくちゃ、な。
と改めて心に誓う廣木なんである……。
〈了〉
2022.06.05
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