第三十二話 綸言汗の如し

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* * * 「料金は、あと払いでお願いしまーす」  美由は軽快に海の家へと駆けていった。後ろ姿を見送った。  嘘だろ……このシーン。  あの日だ。去年の夏の日。三人で来た海水浴。  そう思った瞬間、背後から和真の声が聞こえた。 「ちょっと、話がある。付き合ってくれ」  やっぱりだ。  俺は和真に続いて歩く。  移動先は記憶の通り、岩場だった。  このあとは――。 「おお、こえー」  眼下の岩に打ちつける波を恐々と眺める和真の言葉も、記憶の通り。  彼がライフジャケットを着ているのも記憶の通りだ。 「話しってなんだ?」  俺はこれまた、記憶の通りに言葉を返した。  しかし、当時と心境は異なっていた。なぜなら、この先を知っているから。  ――彼を飛び込ませてはいけない。何があっても止める。  冷静に状況を分析した結論はこれだ。  あのクソマズい薬は、時間を遡れるものだったのか。  セカンドチャンス。  失敗は許されない。 「俺、今日の帰りに美由に告白する」  その言葉を冷静に聞き入れた。  去年はここで錯乱した。  頭が真っ白になって「おまえ、俺の気持ち、知ってんだろ!」と怒鳴った。しかし、今回は怒りの感情は湧いてこなかった。  こいつが死んでからどれだけ辛かったか。  美由がどれだけ悲しんだか。  生きてさえいてくれれば、それでいい。美由がコイツと付き合ったってそれでいい。  全然……それでいい。  そう思った俺が口にした言葉は、自分でも以外なものだった。 「じゃあ、俺も彼女に告白する。お前には負けない!」  俺はニッと笑ってやった。  和真は目を丸くしてから、大きく息を吐いた。 「それでいい」 「それで……いい?」 「お前の態度を見てると、じれったくて仕方ねえ。だから、鎌をかけたってわけ」  和真は両手に腰を当てて「どうだ」と言わんばかりにハハハと笑った。 「ということは……」 「告白するってーのは嘘。嘘に決まってんじゃねえか」  何てことだ。  彼は俺の背中を押すために演技をしたのだ。俺が美由に告白するよう仕向けるために。  そんな、そんな、そんな……。  そうとは知らずに、俺は言ってしまった。絶交……だと。  後悔が心を満たし、涙が目頭に溜まってきた。 「も、もし、俺たちがカップルになったら、三人……の関係が……変わっちまう。お前はそれでも……いいのか?」  情けないことに、涙声になっていた。  和真は俺に近付くと、肩をバンと叩いた。 「そんなことで、俺とお前の友情は変わらないって!」  涙がついに溢れてしまった。  その時だった。 「女の子が流された!」  次の展開をすっかり忘れていた。  本当にすべきことはこれからだ。  和真は条件反射で海を見下ろしていた。  ――やばい、飛び込んでしまう!  咄嗟に手を伸ばした。  まだ届く。彼の手、右手を掴むのだ。  何があっても、飛び込ませてはいけない!  俺の手がまさに、彼の右手を掴もうとした――。  その手は……空を切った。  空気を掴むようで、何の感触も無かった。  二度目の手を伸ばす頃には、彼は海へ飛び込んでいた。  自分のライフジャケットを女の子へ着せ、そして――。  そこからは、記憶の通りだった。  打ち切られた捜索。  翌日、引き上げられた青白い顔の彼の遺体。  泣き崩れた美由。  そして、俺も同様に泣き崩れた……。
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