第三十三話 そうだ、無間地獄へ行こう!

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第三十三話 そうだ、無間地獄へ行こう!

 その老人は、グラスにブランデーを注ぐと、部屋の片隅に置かれた冷蔵庫から氷を出して入れた。小さなソファーに腰を下ろす。部屋の片隅にはベッドがある。  ここは、老人の寝室だ。  それから、壁に掛けられた油絵に視線を向けた。  その部屋に似た、モダンな洋室に座る少女の絵。  赤い洋服は体にぴったりとフィットしており、彼女の華奢な体つきを際立たせていた。  表情は(はかな)げ。笑うでもなく、悲しむでもなく、限りなく虚無な印象を与えた。 「九十歳までには……と思っていたのだが」  独り言を口にした老人は、自分の半生を振り返った。 * * *  誰と比べても、胸を張って「幸せだった」と言える人生。戦後の混乱期に建築会社を立ち上げた。多少は苦労したが、高度経済成長の波に乗って仕事が絶えることはなかった。  会社は、あっという間に大きくなった。今となっては、大手建築会社の一つに数えられるにまで至った。  十年ほど前まで経営に携わっていたが、今は息子が社長を務めている。優秀でかつ、人徳がある息子は、問題なく会社を運営している。心配することはない。  一流大学を出た孫は、外の会社で修行をしたあと戻ってきて、同じく建築会社に勤めている。将来は、彼が会社を担ってくれるだろう。  子供は二人。もう一人は娘だ。海外で美術を学び、洋服のデザイナーとして名をはせて日本に戻ってきた。今は、同じ家に住んでいる。  建築会社の社長がみすぼらしい家に住むわけにはいかないので、大きな洋館を立てた。今は、娘と、娘の息子夫婦、その娘であるひ孫の四世代で住んでいる。  妻も健在だ。会社が軌道に乗ったとき、名家の娘さんとのお見合い話が舞い込んできた。とても美しい娘さんだった。それが、今の妻だ。  名家出身だと仕事には向いていないと思っていたが、予想に反して、妻は会社を裏から支えてくれた。感謝しかない。  お互い大病を患うことなく、この年まで過ごせたのは何よりだ。  仕事一辺倒で母親らしいことをしてやれなかった、が口癖の妻は、ひ孫にベッタリだ。甘くし過ぎではないかと思うが、まあ許そう。  平均寿命を超えた今でも、足腰に力がみなぎっている。長時間のランニングは辛いが、まだ走ることもできる。  財産的にも心配はない。会社の株価は上がり続けた。過半数の株式を親族で所有しているので、ひ孫どころか、そのひ孫の世代まででも使いきれないだろう。  順風満帆な人生だった……。  ノックの音で、老人は我に返った。 「おじいちゃん、入っていい?」  幼い女の子の声。ひ孫の愛理だ。 「鍵は掛かってない。入っていいよ」  ドアが開いた瞬間、白いワンピースの少女が駆けよって来て、老人に抱きついた。
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