第三十三話 そうだ、無間地獄へ行こう!

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「こらこら」  老人は、照れ笑いをする。 「おじいちゃん、また、この絵を見てたの? 確かに愛理よりも可愛いけれど、ちょっと妬いちゃう」  ひ孫は、老人によく甘えた。  両親は仕事が忙しくて、構ってもらえない。妻はひ孫にべったりではあるが、躾には結構うるさい。なので、一番、話を聞いてくれる老人のところにくるのだった。 「おばあちゃんは、この絵、あまり好きじゃないって言ってたよ」 「そう、あいつはそう言うな」 「でも、愛理は好きだよ。同じくらいの年齢だし、本当にいたらお友達になっていたかも!」  絵の方へ近付き、身長よりも高い位置に掲げられた油絵を見上げる。 「この絵が描かれたのは、明治時代。モデルの少女が生きていたとしても、私よりも年寄りだぞ」  老人は目を細めた。  ひ孫は十歳。体つきが、幼女から大人になっていく中間の時期。  赤い洋服の少女と、白いワンピースのひ孫が重なると、紅白のお祝いみたいだ。 「絵の周囲に、何かキラキラしたものが埋まってるんだけど」  愛理は手を伸ばして、絵の淵をなぞった。額には、全周囲にガラス玉のような石が所狭しと散りばめられていた。 「それは、ダイヤモンドだよ」 「ええっ! ダイヤ! ダイヤって高いんでしょ」  愛理は目を丸くして、老人の方を振り返った。  女性とは、年齢によらず宝石に興味を示すものなのか。老人はそう思った。同時に「私は全く興味はないのだが」とも思う。 「そう、高いんだぞ。だから、この絵を買うのにすっごくお金がかかった」 「どのくらい?」  直接的な額を告げるのをためらった老人は「プロ野球のトップ選手の年俸くらい」と答えた。  そのとき、少しだけ開いていたドアの向こうから、妻の声が響いた。一階から叫んでいるようだった。 「やばっ。私、行かないと。お使い頼まれてたんだ」  愛理は「また来るね」と手を振ってから、慌てて部屋を出て行った。  静かになった部屋で、老人は改めてブランデーを口に運んだ。  グラスをソファーの前のローテーブルに置いて、立ち上がる。  そして、絵の前へ歩み寄った。 「なぜ、何もしてくれない」  絵に語りかけた。  赤い洋服の少女は、無表情のままだ。 「なぜ、私を不幸にしない! なぜ、こんなに幸せなんだ。お前は、不幸をもたらす絵なんだろ!」  愛理と話すときには絶対に使わない、強い語気。老人は独り言を続けた。 「もう、一年にもなる。そろそろ、私を無間地獄(むげんじごく)へ連れて行ってくれ。頼む」 * * *  ――そうだ、無間地獄へ行こう!  そう思ったのは十年前、八十歳のころだった。老人は自分の人生に違和感を覚え始めていた。  何をやってもうまくいく。  二十代で起業してから、資産が増えることはあっても、減ることはなかった。  人間関係に恵まれた。会社の金を横領されたことはないし、町でヤクザに絡まれたこともない。  そのころから『順風満帆』という四文字熟語が嫌いになっていった。  山や谷があるからこそ人生のはず。しかし、自分には谷がない。まっしぐらに山を登っているような人生。  何事もうまくいく人生は、不幸なのではないか? そんな思いが日増しに強くなった。  そんなときに偶然、仏教の本を手にして知った『無間地獄』。絶えることのない苦しみを受け続ける地獄。  八大地獄の最下層。老人はいつしか、そこに行ってみたいと思うようになっていた。  そんなある日、画廊から『不幸を誘う絵』の話を聞いたのだ。名もなき画家が描いたその絵は、所有者を不幸にする。そのため、次々と転売された。  転売される理由は、額に散りばめられた宝石にあった。資産価値を求めて富豪が買い求めるのだ。しかし、不幸に見舞われ、また転売される。  老人は画廊に「その絵が売りに出たら、いくらでも買う」と告げた。画廊との繋がりを保つため、興味のない沢山の絵画を購入した。  買ったあと、それらの価値は上がり続けたが、彼には興味がなかった。そして、十年の時を経て、目的の絵をやっと手に入れたのだ。
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