第三十六話 あんずドロップ

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* * *  女性は、洋服店の前で立ち止まり、ガラスウインドウを覗き込んだ。急ぎの用事があるわけではなさそう。  髪は肩までの伸びたブロンド。  髪の毛を染めた日本人という可能性もあるが、ここはグアムだ。外国人である確率が高いだろう。  近付き過ぎない位置で立ち止まり、スマートフォンを確認する。 『アンズちゃんが近くにいます』  アプリは淡々と、測定結果を表していた。  ――ここで、確認しなければ、一生、後悔する。  僕は意を決して、話しかけることにした。 「イクス キューズ ミー」  得意の英語で声を掛けた。女性は、背後からの突然の問いかけに驚いたのか、体をビクッと震わせて僕の方を向いた。  年齢は僕と同じ二十代だろう。とても美しい女性だ。  僕の視線が釘付けになったのは、その瞳だった。  グアムの海を思わせるような、綺麗な青い瞳。女性は一瞬、驚いたようにその瞳を丸くしたが、すぐにほのかな笑みを返してきた。 「あなた、日本人デスね。ワタシ、日本語、得意です」  流暢な日本語に驚きを覚える。  英語訛りが含まれているものの、日常会話には問題がないレベル。 「何かご用デスか?」  白いブラウスにジーンズのラフな格好だが。  日本人にはないメリハリのあるボディラインだった。いや、そんな所を見ている場合ではない。何か返答しないと。  声を掛けたのはいいが、会話のネタを全く考えていなかった。 「いえっ、その。あなたは、猫派ですか? 犬派ですか?」  赤の他人にそんなことを尋ねることなどあり得ない。言ってからそう思い返す。 「ワタシは、キャットパーソンです」  女性はクスクスと笑いながら答えた。新手のナンパとでも思ったのだろう。しかし、掴みはひとまずクリアした。 「お仕事は、何をされているのですか?」  次に出た言葉はこれだった。  これでは本当にナンパだ。嫌な顔をされて立ち去られても仕方がない所だが、女性はあっさりと答えてくれた。 「ワタシ、貿易の仕事をしています。仕事柄、一か所に留まることはできないのデス。十年くらい前、日本に住んでいたこと、ありマス。そのとき、日本語、覚えました」  十年前ということは、アンズちゃんを飼っていた頃、日本にいたということだ。  もしかして……逃げ出したアンズちゃんを確保して、飼ってくれていたのかもしれない。  そのとき付けていた鈴を外して、アクセサリーとしてスマートフォンに付けているのだろうか。  猫の寿命からして、まだ生きていてもおかしくない。じゃあ、一緒に外国暮らしをしているのか? 頭が混乱してきた。  いや。悩んでも仕方がない。  直接、確認しよう。 「その……鈴、そう、鈴が気になって、あなたを追ってきました」  僕は、彼女のポケットを指さした。彼女は差していたスマートフォンを手に取り、目を丸くした。  笑みが消える。手元の鈴を見てから、僕の顔をジッと見つめた。 「僕が高校生の頃です。日本で飼っていた猫が行方不明になりました。その猫に発信機を付けていました。鈴型の発信機です。さっき、一階で反応がありました」  僕はスマートフォンの画面を、彼女の前へ差し出した。 『アンズちゃんが近くにいます』  軽快に話していた彼女は、黙ってしまった。  やっぱり何か知っている。直観的にそう思った。  ――今、アンズちゃんはどうしてますか?  そう聞こうと、口を開きかけたときだった。 「健太、こんなところにいたの? 私が、英語苦手だって知ってるよね」  背後から女性の怒り声が聞こえた。  やばい。里美だ。  よりによって、このタイミングで……。  彼女は、僕ではなく青い瞳の女性を見ていた。しかも、鋭い視線で。 「誰、この女。知り合い?」  里美は、いきなり厳しい言葉を浴びせてきた。 「いや、そのっ……」  頭が混乱していたので、適当な言い訳が出てこない。新婚旅行だ。こんな理由でケンカするなんて大失態だ。 「ワタシの落とし物、拾ってくれたのデス」  青い目の女性は、里美にニコッと笑いかけた。  そして、自分のスマートフォンを前に突き出して小さく振った。ストラップにぶら下った金色の鈴がチリンチリンと涼しい音を立てた。 「この鈴、ワタシが日本に住んでいた時にもらった宝物デス。落としたの、気が付きませんデシた」  僕は、機転が効いたその理由に乗っかることにした。 「そっ、そうなんだ。エスカレータに乗る直前に、落としたのが見えてさ。急いで拾って追いかけたんだ。ゴメン」  僕は両手を合わせて、申し訳なさそうな表情を作った。 「あっ、そうなんだ。健太、善行をしたってわけね」  里美はサバサバした性格だ。それに救われた。そんな性格も含めて、僕は彼女の全部を愛していることに改めて気付く。 「お二人でご旅行デスか?」 「はい、新婚旅行なんです」  里美はこれ見よがしに、結婚指輪がはまる左手を見せつけた。美しい女性に対抗意識が出たのだろうか。  でも、問題は解決していない。  里美の合流により、アンズちゃんのことを聞くタイミングを失ってしまった。  いや、里美にもアンズちゃんの話をしている。発信機のことも言ってある。鈴型の発信機とまでは言っていないが。  ここで、話題を持ち出すか? いや、そんなことすれば、せっかく落とし物を拾ったという言い訳と整合しない。 「では、ワタシはこれで」  青い目の女性は小さく頭を下げて、店の前から歩きだした。  ――待ってくれ!  心の声はそう告げたのだが、リアルな声として発することができない。  その時、女性が立ち止り、クルリと体を返して僕たちの方へ歩み寄ってきた。  歩きながら方に掛けていたバッグをガサガサとしている。 「こんな物しか今、持ってなくてゴメンナサイ。これ、お二人への結婚祝いデス」  バッグから取り出して差し出してきたのは、透明な袋に入ったお菓子だった。  ラベルには『あんずドロップ』と日本語で書いてあった。果物の杏を飴にしたもの。 「ワタシ、日本に行ったら、必ずこれ買うのデス。お気に入りデス」  あんず……ドロップ……。青い目……。 「あと、日本にはすごい発明があります。ワタシ、それが大好きで、どの国に住んでも自分の部屋に付けています」  発明?  僕と里美は顔を見合わせた。 「ソレは、ウォシュレットです。もうアレがないと生きていけまセン。では」  満面の笑みを僕たちに向けて、彼女は今度こそ立ち去った。  追いかけることはできない。  僕はすぐに、自分のスマートフォンを確認した。 『アンズちゃんを見失いました』  心がチクリと痛んだが、不思議と悲しさは感じなかった。 (了)
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