第四十二話 政策は、多数決で決めます!

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* * * 「教授、大学の脇に川が流れてますよね? 知ってます?」  私は、女子学生の問いかけに首を傾げた。いきなり「知ってます?」と聞かれても、対象が語られていない以上、答えようがないではないか。  こんな国語力で卒業論文が書けるのか……心配になってくる。  研究室には、男子生徒2名、女子生徒2名が事務机を囲って座っていた。  経済学を専攻とする、我が研究室のメンバー。今からゼミを開始するのだ。 「教授とは呼ばなくていい。前から言ってるだろ、宮本さんでいいよ」 「そんな、お友達みたいな呼び方、できません。じゃあ『先生』でいいですか?」  最近の若い者は軽いな。  私は苦笑する。しかし、経済学は生き物だ。若者たちの感覚を知ることは重要である。その点では、研究室というシステムは有用だ。強制的に若者と接することができるのだから。 「で、川がどうしたって?」  ゼミで読む本は堅苦しくて、楽しいものではない。開始前に雑談で場を和ませることは必要だ。 「橋ですよ橋。駅に抜ける橋が落ちたって」 「それで、通行止めになっていたのか」  男子学生の一人が、溜息まじりで会話に割って入った。眼鏡を掛けた聡明な生徒だ。 「先生、これは由々しき事態だと思います。橋だけではありません。この国の建造物が、軒並み劣化しています。土手のコンクリートが崩れたり、道路が陥没したり。それだけじゃありません。山奥にある大型ダムが危ないって話もあります。この事態は、やはりおかしいと思います」  男子学生は握った拳で机を強く叩いた。彼は公共投資について研究をしている。過去何十年にも渡る、国や地方公共団体が拠出した投資を分析して、国民の人口と比較し、あるべき姿を模索するというものだ。 「私も君の意見に賛成だ。だが、それがおかしいと示すには、データで根拠を示す必要がある。論文をしっかり仕上げよう。それを発表すれば、少しは変わるかもしれん」  私が住む郊外の住宅街でも、似たようなことは起こっている。道路はボコボコで修繕されない。さすがに水道管が破裂したときには業者が来て工事をしていたが、修繕されるのはライフラインに壊滅的なダメージを与える場合だけだ。 「先生、この原因は全て、あの法律のせいだと思うのですけど」  女子学生が、短めの派手なスカートから伸びる生足を組んだ。若い女性が好みそうな服装……そうか、あの法律が出来たとき、彼らはまだ、中学生か。 「法律ができた経緯を教えてください。僕の研究にも重要な意味を持ちますので」  ゼミは専門書の輪読を基本としているが、時には講義形式でもよかろう。 「政治学が専門ではないので、アバウトな説明になるけど、いいかな?」  全員が私の方を見て小さくうなづいた。 「あの法律、『国民多数決法』が出来たのは――」  私は記憶をたどって、語り始めた。 ――この国の重要事項は、国民全員の多数決に基づいて決定したいと思います。  首相が唐突に発表したのは、今から六年前の話だ。当時の内閣は、支持率の低下に苦しんでいた。子育て支援、経済活性化など、様々な政策を打ち出すも、どれも国民に受入れられなかった。民意が分かっていないと、マスコミに激しく叩かれた。  経済学の視点では、妥当と思われる政策はあったのだが。  そこで、首相が打ち出したのが『国民多数決制』。  仕組みは簡単。あらゆる政策の意思決定を多数決という形で国民に問うというものだ。 「その提案が出たとき、反応はどうだったんですか?」  女子学生が、組んだ足をほどいて前のめりになる。 「そんなバカな政策……と思ったものだが、それが、ことのほか好意的だったんだよ」  実際に好意的に受取る国民が多かった。マスコミも同様だった。  苦肉の提案が受入れられたことに気を良くした首相は、具体的な制度設計を指示したのだった。 「それって、間接民主制の崩壊じゃないですか!」  男子学生が、眼鏡の奧から鋭い視線を向けてきた。  私は、両手を上げて落ち着かせようとした。 「その意見は当然にあった。こんなのは、直接民主制じゃないかとかね」  国民が選んだ代表者が集まって、話し合って法律を制定するのが間接民主制だ。世界の多くの国で採用されている。しかし、その質問に当時の首相はこう答えた。 ――間接民主制であることは変わりません。国会は多数決の結果を参考にするだけです。 「決めるのはあくまで議会ということだ。制度はこうだ」  私はホワイトボードにポイントを書き出した。   ① 投票はスマートフォン経由で行う   ② 結果は国民全員が投票した後に発表する   ③ 議員は多数決の結果をとして用いる  スマートフォンを持っていない人には、専用端末を支給することとなった。  そして、翌年、法案が国会を通過した。  国民の多くは民意が直接、反映できると歓喜した。「批判ばかりしていられない」と考えた人も多く、政治に興味を持つ人が増加した。それに沿うように、支持率は上がっていった。 「最初にやり玉に挙がったのが公共投資……で正しいですか?」 「そうだ、公共投資には巨額の予算が必要。そのくせ、効果が目に見えにくい。だから、最初に議論されたんだ」  公共投資とは道路・電気・水道などのインフラの整備などを行うための投資である。  こんなにも多くの額が投資されているのかと驚いた人が多かった。  そして「そんな高額な支出は削ってしまえ!」との声が大きくなっていった。  国のインフラは重要だと主張する議員もいたが、国民投票の結果、減額すべきとの判断。民意を無視することができず、公共投資は大幅に削減されることとなった。 「削り過ぎは国力の低下を招きます。現に物流に支障がでています」 「都内なら以前は、注文して翌日には荷物が届いていた。今は三日も掛かる。国力低下は、私も同意見だよ」  私は男子学生にうなづき返した。  陥没した道路、破損した港、落ちたままの橋などが、物流網を寸断していた。カーナビの新機能として、壊れた道路を回避するモードが搭載される始末だ。 「低所得者への給付も国民の多数決で決まったって本当ですか? 私の親も、それで助かったと言ってましたけど」  女子学生が話題を変えた。 「ある議員が『低所得者に多額の給付をする』という提案をした。しかし、国民の一部だけを補助するのは、不公平だという声が上がった。それでは国民全員に一律に高額の給付をすればいいという案が持ち上がった。多数決では80%が賛同した」 「そんな財源、どこにあるんですか?」 「財源なんてないよ。財政が破綻すると主張する議員は当然にいた。しかし、民意には逆らえず、結局、賛同した。財源は大量の国債発行でまかなわれている。おかげで、日本は世界最大の借金国だよ」  その他、例をあげればキリがない。死刑だって廃止された。世論を二分した議論の結果、僅差で死刑廃止派が勝った。そして、少年犯罪の罰則軽減も。 「全部、投票を参考に決めるんだったら、国会議員なんていらわないわね。でも、多数決って、正しい判断ができるので、いい方法じゃないですか?」  女子学生は、ウンウンとうなづきながら腕組みをした。 「本当にそう思うかい?」  聞き返す私の言葉に「はい、そう思います……けど」と彼女は小声で返した。 「グループシンクという言葉を知っているかな?」  私は、全員の顔を順に見つめて問いかけた。 「認知心理学の教授から聞いた話なのだけれど……日本語では、集団浅慮(せんりょ)というらしい」  皆、急な話題の転換に、キョトンとしている。 「一人なら正しい判断ができるのに、大人数になったら判断を誤る、そういった、人間の行動特性のことを呼ぶらしい」  私は例を挙げて説明した。  AとBの選択肢があって、自分はAが正しいと思っても、クラスの大部分がBに手を挙げたら、自分も賛同してしまう……そんな事例だ。 「だとしたら、まさに今、起こっていることじゃないですか」  男子生徒が眼鏡を持ち上げてから、グッと体を乗り出した。 「間違っていると思っても、誤った多数派の意見に賛同してしまうことがある、これは、実験で証明されている。人の持った特性の一つなんだよ――」
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