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第四十三話 死神のささやき
ハア、ハア、ハア……
俺は、白い息を吐きながら、駅前の歩道を走っていた。
息が切れる。
最近、仕事が忙しく、運動不足だ。
その上、今月は忘年会と称して得意先との飲み会が多い。
健康に気を遣わないとな、だってこれから……。
コートの右ポケットに手を入れて、その感触を確かめる。
指輪が入っている小さな木箱。
給料三ヶ月分を支払った婚約指輪だ。
値段で指輪を選ぶ時代ではないかもしれないが、俺はこだわった。簡単に支払える額だと、自分にけじめがつけられない。
結婚には覚悟が必要。これは、経験上、そう言える。
両親は、お世辞にも仲が良いとは言えなかった。その証拠に、俺が社会人になった瞬間に離婚した。中学生や高校生の頃に離婚されるよりは、ましだが、複雑な思いは拭いきれない。
楽しい家族団らんの記憶はない。世に言う『仮面夫婦』だったのだろう。どちらか一方が悪いわけではない。どちらも悪い。幸せな家庭を築くには、双方の努力が必要。恋愛の段階と、家族の段階では、付き合い方が異なるのだ。
俺は、幸せな家庭を築く覚悟で、この指輪を彼女に渡すつもりだ。
彼女は受け取ってくれるだろう、きっと……。
腕時計に目をやる。電子表示の上に粉雪がついていた。ホワイトクリスマスか……って、いや、ヤバい!
待ち合せ時間を五分も過ぎていた。こんな大事な日に遅刻だなんて。退社直前に仕事を押し付けてきた部長を恨んだ。
医療機器の販売営業という仕事は想定外の仕事が多い。彼女との約束をキャンセルしたこと、数知れず。しかし、彼女はそんな俺の仕事に理解を示してくれていた。とはいえ、今日はいつものデートとは意味が違う。
一分、一秒でも早く着きたい。
大通りの横断歩道の先、ビルの三階にあるレストランを見上げた。
奮発して予約した、おしゃれなフランス料理店。彼女はとっくに到着しているだろう。
青信号が点滅した。この信号は待ち時間が長かったはず。
行ける! ダッシュすれば、何とか渡り切れる。
俺はどちらかと言えば慎重派だが、なぜかそんな気がした。
走る速度を上げる。しかし、「あっ」と思った瞬間、俺は足を絡ませて転んでしまった。粉雪が積もった白線に足を滑らせてしまったのだ。
その直後に、うるさいほど大きなクラクションが鳴った。
大型トラックが迫ってくる。トラックは赤信号になる直前ギリギリで交差点を右折しようとしたらしい。
――トラックは運転が荒いから嫌いだ。
見上げるほど大きな物体が、立ち上がる余裕を与えることなく目の前に迫ってきた……。
* * *
「ほら、そこ! 居眠りしない!!」
遠くで声が聞こえる。知らない男性の声。深い海の底にいるような静けさと暗さ。ここはどこだ?
痛っ!
頭に刺すような痛みが走った。
「次に居眠りしたら、合格できないと思え!」
体を起こしてキョロキョロする。机に突っ伏して、眠っていたらしい。
――ここは……教室!?
学校で使う簡素な机が整列していた。全ての席に誰かが着席していた。誰か……というのは、外見から学生には見えないからだ。年齢層もバラバラだ。高校生くらいの女性から、老人までいる。状況がつかめない。
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