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俺は気を落ち着かせるために、大きな深呼吸をした。机の上にチョークが落ちていた。黒板の前にいるオッサンが投げたのか。
「おはよう、ございます! はい!」
オッサンの振りに誰も反応しない。数名が小声でつぶやく程度。年のころ六十歳くらいか、ボサボサの白髪にでっぶりしたお腹。活舌が悪く、声が聞き取りにくいい。
「ページが飛んでないか、テキストを確認しろ」
机の上に薄っぺらい冊子が置かれていた。裏向きになっていた冊子を裏返し、表紙を確認した。
――交通教本。
そう書かれていた。ペラペラとめくると、横断歩道や標識やらの記述がある。ということは、ここは、教習所か? いや、運転免許試験場だ。それなら、年齢層がばらけていても不思議ではない。でも、なぜ、こんな所にいるのか?
俺は確か――。
脳内にズキッと鋭い痛みが走った。
俺は、レストランに向かっていた。指輪……そう、彼女に指輪を渡すために。
頭痛が激しくなる。俺は思わず右手で額を押さえた。交差点、そして、目の前に迫るトラック。光景がはっきりと蘇った。俺は確かに、トラックに、はねられた!
右手を額から外すと、手にぬめっとした感触を覚えた。
「うわ!!」
真っ赤な何かがついていた。
「ち、血!!」
「おい! 居眠りの上、講義妨害か! 出て行ってもいいんだぞ。ただし、永遠に成仏できなくなるけどな」
周囲の視線が一斉に俺に向けられた。今、なんて言った? 成仏だと?
「教官。このサラリーマン、寝てたので説明、聞いていなかったと思います」
斜め前に座る若い男性。茶髪でロン毛、日に焼けた肌がサーファーを回想させた。
黒板前の男性が教官ということらしい。教官は溜息をついた。
「お前らは既に死んでいる。しかし、あの世には行っていない。宙ぶらりんな状態だ」
死んだ?
戸惑いよりも、やっぱりといった感覚だった。
観察すると、周囲の人間には奇妙な点が沢山あった。服が破れていたり、顔にアザがあったり。腕が変な方向に曲がっていたり。
「これから、三日間の講義を受けてもらう。卒業検定に合格したら、エージェントの資格が与えられる。そして、ミッションに従事してもらう。ノルマが達成できれば、晴れて卒業となる」
「卒業は、成仏するってことでいいですか?」
茶髪の兄ちゃんが頭の裏に両手を回して、面倒くさそうに体を大きく逸らした。
「魂が浄化され、あの世に送られる。転生待ちの間、天国で過ごすことになる」
「なぜ、私たちは真っすぐあの世に行けなかったんですか?」
今度は、右隣に座っていた学生服の女子が質問をした。
「お前らは別に、悪いことをした訳じゃない。そういう奴らは、即刻、地獄行きだ。なぜここにいるか? そうだな、現世に執着……つまり、未練が強く残っているからと言えるな」
女子高生は目を閉じてうなだれてしまった。
「気を落とすな。ここで、しっかりスキルを身に付けて、ミッションを達成すれば、再度、生まれ変われるチャンスが得らえる。生き返ることはできないが」
女子高生の様子を見たためか、教官の口調がは、幾分か柔らかくなった。俺だって、女子高生と同じ気分だ。彼女へプロポーズすることなく、死んでしまったのだから。
ひとまず、講義を聞こう。考察するのはそれからだ。
「日本における、年間の交通事故者数は何名くらいか分かるか?」
「はい、茶髪」
「お、オレっすか? えーっと、一万人くらいっすかね」
「じゃあ、そこの血だらけ」
血だらけ? 教官の視線から察するに俺のようだ。
「えーっと、三千人くらい……ですか?」
教官は「いい線だぞ」と言いながらいって、教本のページを指定した。
『令和五年 2678人』
「じゃあ、その前年は?」
「令和四年は、2610人です」
一年、遡ってもあまり変わらないじゃないか。じゃあ、その前の年は? 表を遡って確認する。令和三年、2636人。俺は違和感を覚えてあごに手を当てて教法を見入った。
「何か気が付いたか?」
「あっ、いえっ……毎年、ほとんど変わらない人数なんだなって思いまして。同じ人間が複数回、死ぬことはないですよね。それで、毎年、ほぼ同じ人数なんて不思議だなと」
十年前と比べるとほぼ半減していた。しかし、前年と翌年を比べるとその差は思ったより小さい。交通システムが変わらなければ、必然的にほぼ同じ人数が亡くなるということか?
「いい着眼点だ。気が付く奴は滅多にいない。褒めてるんだぞ」
教官は、満足そうな笑みを浮かべた。
「今年のノルマは2700人。この達成は、君たちの肩に掛かっている」
教官は、黒板に四桁の数字を大きく書き出した。
ノルマ? 何のことだ。
「ウイルスの蔓延が山を越え、人の往来が一気に増加している。去年より下回るのはおかしいだろ。ということで、この数字に決定した」
「えーー、決まったって、誰が決めたんですか~?」
茶髪君がボールペンで机をカツカツと叩きながら質問した。
「お上だ、いや神様か。ともかく天国にいる偉い人たちが決めたんだよ。会ったことはないが」
そういうことだったのか……俺は、妙に合点がいった。誰かがコントロールしないと、死者数が、こんなに近い数値になるはずがない。これじゃ、出来レースじゃないか。
「私たちは何をするんですか!」
女子高生は、机をバンと叩いて立ち上がった。
「落ち着け。君たちには、エージェントとしてだな……」
「私たちに交通事故を起こして人を殺せっていうことですか!」
「各自、割り当てられたエリアを担当してもらう。机の中にデバイスが入っているので出せ」
机の中にスマートフォンが入っていた。
「数字がでているだろう。それがノルマだ」
俺の端末には『50』と表示されていた。横目で女子高生の端末を見ると『20』と表示さていた。
「未練が大きいほどノルマが多くなる。数字がゼロになったら、晴れて成仏、あの世に行けるってわけだ」
何だよそれ……。交通事故で死んだ俺に、交通事故を起こせだと。
周囲の端末をチラ見するが、見たところ俺の数字が最大だった。
「で、どうやって事故を起こすんですか~?」
「端末には、周囲の交通状況や運転者の情報が表示される。それを上手く使うんだ。そして、君たちにできることは、ただ一つ。『耳元でささやく』だけだ」
エージェントが耳元で囁くと、その人間はささやかれたことを実行したくなるのだそうだ。本人に、聞こえているという意識はない。深層心理に語り掛けるのだ。これじゃあまるで、死神のささやきだ。
その後、講義が続いた。端末の操作方法や、有効なささやき方など。初日の講義の最後に。教官はこう締めくくった。
「五親等以内はターゲットにできないので気を付けるように。あと、配属先は、自分にゆかりのない土地となる。だが、落ち込むな。最後の五名になったら、自由に配属先が選べるぞ。最後のご褒美と思え!」
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