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無自覚な君と。
時計の針はお昼の11時を指そうとしている。もうすぐこの甘味処の開店時間。あやめがテーブルを拭き、メニュー表を揃えて開店準備を進めていくと、甘味処の扉がガラリと開かれた。古来から受け継がれている縁起柄・矢羽根絣があしらわれた赤い茶衣着を身にまとったあやめは、入店してきた馴染みの人物ににこりと笑みを向ける。
「いらっしゃいませ! あっ、水無月さま! ご無沙汰しております~」
「あぁ、あやめちゃん。今日も元気だねぇ」
「あはは、元気だけが取り柄ですからぁ」
店前に設置してある縁台に緋色の布をかけ、そこに添えられた赤い野点傘が目印の和菓子屋梅津の創業は大正時代。由緒ある茶屋街の一角に店を構えている。店内は和菓子の販売スペースとなっており、その奥に喫茶スペースがある。近隣の住民の憩いの場でもあり、日本情緒あふれる神社仏閣が立ち並んだ観光地から徒歩約10分と近く、観光客からも人気の茶房だ。
「ん~と……手作りピラフをふたつと、食後に抹茶黒蜜白玉パフェひとつ、それから栗くるみあんみつをひとつ」
「ありがとうございます。他にご注文はありませんか?」
「大丈夫です」
「かしこまりました! 3番テーブル、オーダー入りま~す」
あやめは弾けるような笑顔を振りまきながら他のスタッフとともに一番忙しいお昼時の接客をこなしていく。
「あやめちゃ~ん。休憩お先しました。ささ、行ってらっしゃい。帳簿の整理は後ででいいから、ちゃんとご飯食べてくるのよ? いい?」
「はーい! ありがとうございます!」
あっという間に正午を過ぎ、客足が一度落ち着いて来たころ。チーフスタッフである野田に促され、あやめは休憩に入った。和菓子屋梅津の三代目店主・梅津勝典の娘であるあやめは、幼少期からこの甘味処の手伝いをしていた。経済系の大学に入学したものの就職活動はせず、卒業後はそのままこの店に就職。以来、あやめは自らを産み早世した母・美鶴に代わり、この和菓子屋の経理全般を担っている。そのためこの店で働くスタッフはほぼ全員、あやめの成長を幼いころから見守っており、少々過保護にも思えるような応対をしているのだ。
(帳簿は後ででいい、って言っても、ねぇ……)
あやめは休憩室を通り越し、和菓子屋と甘味処共用の事務室へと足を向ける。その手に下がる二色の巾着には、今朝あやめがさっくりと握ったおむすびが三つと二つ。そしてあやめは事務室の扉を開き、想像通りの光景に思いっきり眉間に皴を寄せる。
「……もう。やっぱり」
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