妖神 其の三 【皆鶴姫】(随筆編)

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 その後、寛政年間(1779~1801年)・会津藩松平家五代藩主・容頌(かたのぶ)は、この悲恋物語に感じ碑を建立し、皆鶴姫の菩提を弔いました。  藤倉には、三基の碑がひっそりと残されています。  一番古い碑は、正徳六年(1716年)の碑で、また寛政五年(1793年)の碑は、『新編会津風土記』にその銘文が記載されており、さらに、昭和二九年(1954年)にも碑が立てられるなど、この伝承が語り継がれてきたことを物語っています。  なお碑群は、昭和六二年(1987年)二月に、町指定の有形民俗文化財となった。  義経に再会できずに亡くなった皆鶴姫でしたが、ただ失意のまま池に身を投じた訳ではありませんでした。  人より遥かに優れた才能を持つ人には、神のみたま・神霊が宿っているといいます。神霊を宿した者は生まれながらにして天才の分を持ち、世のため人のためにその能力を発揮し、その才を私利私欲のために使うことはありません。  ところが、その尊い行為は、世の権力を握る俗物たちに妨害され、失意のまま一生を終わることもあります。その場合、神霊は肉体を離れるとこの世を見限って、人の世に復讐する恐るべき霊・怨霊となる。  怨霊は人の霊を超える神霊であるため、その祟りは想像を絶する災いをもたらすことがある。そのため、人々は怨霊を神として祀り、祟りを静めようとします。  現在、学問の神様として知られる菅原道真も、かつては怨霊であり自分を陥れた藤原一族を次々と呪った。それによって藤原氏は謎の病や事故に襲われ死者が続出し、醍醐天皇をも祟り殺した。  皆鶴姫に神霊を有していたかは分かりませんが、死して彼女は神になろうとしました。神になることで、人の身ではできなかったことを成し遂げようとしたのです。  ですが、それは義経や人の世に復讐するためではありません。他の人には自分と同じような別離の気持ちを味合わせたくない、皆が自分のような悲しい目に遭わないようにと決心してのことでした。  そうした姫の想いは伝わり、皆鶴姫は神として信仰を集めるようになる。  昔から城下や付近から皆鶴姫の碑を参詣する人は多く、参詣すれば必ず良縁が授かると言われた。  そして、皆鶴姫は縁結びの神として、今日でも深く信じられています。 kou
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