妖神 其の三 【皆鶴姫】(随筆編)

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 目の前で自分の子供が殺される。  その状況は、皆鶴姫でなくとも母親ならば絶することでした。  皆鶴姫は、もうろうとしながらも足は義経を追い、北へ二里(8km)ほど行った藤倉(現在の福島県河沼郡河東町)に立寄ったところ、義経は5日先にここを通り過ぎたと聞かされ、行き先は山路が険しいといわれた。  そこで、彼女は疲労困憊のあまりとうとう倒れてしまった。  藤倉の村人たちの手厚い看護により快方に向かったが、安元二年(1176年)の春、難波池に映る自分のやつれた姿に驚き悲しんだ。  そして、皆鶴姫は池に身を投じてしまう。  時は弥生(三月)の一二日、皆鶴姫・享年18歳でした。  皆鶴姫の死を知った義経は、御山の会津領主、河辺太郎高経の屋敷(会津鑑によれば大寺磐梯町)にあって、当地にかけつけ、池のほとりに墓をつくり自ら卒塔婆を書いて供養した。  法号を安至尼と云う。  また、東に鏡山という地があり、皆鶴姫の鏡を埋めたという。村人は、皆鶴山難波寺を建て、姫の冥福を祈った。  別の伝説では、『六韜』を手に入れた義経は、その瞬間に皆鶴姫の前から姿を消してしまう。  姫はその場にただぼう然と立ちすくみ、その後、皆鶴姫の毎日はただおろおろするばかりでした。  幾日か過ぎたある日、鬼一法眼から『六韜』が無いことを聞かれたが、今はどうすることもできず、腹をえぐられる思いで、これまでの委細を父に話した。それを聞いた父は皆鶴姫をひどく叱り、姫を九十九里浜から、くわの木のうつわ舟に乗せ島流しにした。  その時、母は皆鶴姫の懐に黙って一体の小さな観音像をしのばせた。悪いことしたとはいえ、そのつぐないに島流しされる姫へのせめてもの親心ではなかったのではと思われる。皆鶴姫の乗った舟は初夏の南風にのって北へと流されて行った。雨・風に遭いながら20日あまり。  気仙沼(宮城県)の沖から満潮にのって、一気に蜂が崎まで流された。これを見た村人たちは、皆鶴姫のあまりの立派な姿を見てかかわりたくないと、助けを求める姫をしり目に海に押し戻してしまった。引き潮は舟をあっちこっちへと流し、当館コマツ所在地「母体田」の浜辺に打ち上げられたのはその日の夕方のことでした。村人がどっと集まってきました、皆鶴姫を見た村人は、
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