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1.イタリアンウェディングスープ
「先輩っ……、あのっ……、結婚を前提にお付き合いしていただきたくて……」
見知った女性社員が目の前で俯いて、頬を赤らめる。
恥ずかしそうな、それでいて不安そうな表情をしながら、上目遣いでこちらを見た。
目が微かに潤んでいる。
「入社した時から先輩のこと、憧れていて……先輩の好みではないかもですが……私、頑張ります! ですので、そのっ、お付き合いしてください……っ!」
ぺこりと頭を下げた女性に対して、中谷は思わずどうしたものか、と相手に分からないように溜息をついた。
彼女の肩は微かに震えているから、これが嘘や悪戯でないことは分かる。
人となりは悪くないし、顔が可愛いのは言わずもがなだ。
しかし……、
「叶さん、私、女なんだけど」
中谷は眼鏡をくいと引き上げる。肩まである髪はシンプルに束ね、化粧っけはないかもしれないが、れっきとした女性だ。
小柄な叶は、中谷を見上げる。
くりっとした瞳と、毛先のカールした栗毛がリスみたいだ、と中谷は思った。
「もちろん、存じ上げてますっ! それでも、私、中谷さんとお付き合いしたくて……」
叶はキュッと唇を噛んだ。
何かを堪えるような表情に、中谷は「あのね」と言い聞かせるように言う。
「叶さん、私のこと好きじゃないでしょう?」
「そんな……。私、中谷さんのことを尊敬しています!」
「恋愛感情は?」
「……っ」
「恋愛感情はないんじゃない?」
「そんなこと……」
叶はますます唇を噛み締める。涙目になっていて、これでは私が泣かせているみたいだ。
「さっきから尊敬しているとは言っても、好きだとは言っていない。それに、愛の告白をしているにしては、苦しそうな顔をしていると思うけど?」
中谷が話すよりも前から、叶の表情は固かった。それは緊張からきているというよりも、何か決心をしているようであった。
叶は明らかに動揺したように、大きく目を揺らした。
「別に怒っているわけじゃないよ。でも、叶さんが冗談でこんなことを言っているとは思えない。何か理由があるんでしょ?」
「……はい。でも……」
叶は言葉を詰まらせた。理由はあるようだが、言うべきか悩んでいるといった感じだ。
「私で力になれるようなら協力するし」
そう言ったあと、自分でしまった、と思った。
持ち前の“お人好し”が功を奏したことなど一度もない。
しかし、この言葉に安心したのか、叶は真っ直ぐに中谷を見た。
「私、母から結婚するように強く言われていて……、でも、私、今のところ、結婚する気はなくて、それで、中谷さんに私の彼女になって同居いただいて……、その、私がレズビアンだってことにしてほしいんですっ」
理解はできないが協力できそうな内容に、中谷は思わず頭を抱える。
「あのっ、こういうことは、世の中のレズビアンの方に失礼なのは分かっているし、何より中谷さんに誠実じゃないって分かっているんですけど……、でも、これしか方法が思いつかなくて」
叶はまた、唇をキュッと噛んだ。事態はよほど深刻なのだろう。
とはいえこの子は何をいっているんだ。
「同居って……、私にだって今の生活があるし」
「先輩、今の女子寮、今年の三月で退寮しなくてはいけないですよね? 私が二人用の部屋を探します! 家賃も折半すればお得です!」
「……そういや、叶さん、総務部だったっけ」
入社5年目の中谷が勤続年数の関係で今年の末には社員寮を出なければならないことは、叶には筒抜けのようだった。
「最低限の家事もできます! 総務部は生産技術部よりも残業が少ないので、ご飯も作れます!」
叶はぐいと身を乗り出した。中谷が押しに弱いことをよくわかっている。
「……分かったよ。私が君の恋人になって、一緒に暮らせばいいんだね」
「はいっ! よろしくお願いします!」
かくして、ひょんなことから二人の同居は始まった。
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