(読切・完結)

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(読切・完結)

「じゃあ、3年目の結婚記念日をお祝いして。おめでとう、乾杯!」 と、ボクは、とっておきのシャンパンをそそいだフルートグラスをかたむけた。 なぜだろうか。繊細で壊れやすいクリスタルが「カチン」と触れ合う金属的なささやきに、ボクは、いつもかすかな不穏な胸騒ぎを感じずにはいられない。 エプロンをつけたまま椅子に腰かけていた奥サンは、 「あら。自分たちの結婚記念日に"おめでとう"って、ちょっとヘンじゃない? なんだかヒトゴトみたいに聞こえてよ」 そう鼻先で笑いながら、自分のグラスを軽くヒトクチあおると、またキッチンに戻ってこちらに背を向けた。 ボクは、ひどく居心地(いごこち)の悪い気分を味わいながら、ダイニングテーブルに並べられた美しいオードブルにフォークを伸ばした。 奥サンは「アリアワセを適当に盛りつけただけ」と言ったが、そんなハズはないだろう。 昨夜、赤ワインに合うチーズを探してボクが冷蔵庫をのぞいたときには、こんなオードブルの食材はひとつもなかった。 ということは、親戚(しんせき)の法事のために東北の実家にひと晩里帰りしていた奥サンは、今日、空港から帰る道すがら、オードブルの材料を買い求めて、ボクが仕事から帰る前に急いでテーブルを整えてくれたんだ。 なのに、「アリアワセ」だなんて見えすいたウソをつく。 キミのそういうところがボクにはプレッシャーなんだ。いたたまれないんだよ、すごく……。 スモークサーモンに添えられたクレソンばかりをわざとパクつく。 ささやかな意趣返(いしゅがえ)しも、キミに見えないようにしかふるまえない。 ボクは、いじけた子供みたいで。ミジメな自分に少し酔ってる。 そのうち、オードブルの彩りのバランスをこわすだけでは手持無沙汰(てもちぶさた)をまぎらわせなくなって、ボクは尋ねた。 「とても、いい匂いだね。なにを煮込んでいるの?」 「実家の祖父がね、裏山で(りょう)をして手に入れたお肉をね、オミヤゲにって。持たせてくれたの。ちゃんと血抜きして冷凍しておいたお肉だから、クサミもないけど。スパイスをきかせてブラウンシチューにしてみたわ。今夜のメインディッシュよ」 「へぇー、山で(りょう)を? すごいな。"ジビエ"ってやつか」 「ええ、そうよ。今、お皿に盛りつけてるから、ちょっと待ってね」 やがて奥サンは、オレの前に皿を置いた。 見るからにトロリとしたシチューのかぐわしい湯気が、ボクの鈍感な食欲を刺激してくれる。 奥サンは、ワインクーラーから空のシャンパンボトルを取り上げて、小首をかしげた。 学生時代に初めて会った時から、そういう少女じみたシグサがよく似合った。 「もう、シャンパンが終わっちゃったわ。次は赤ワインにする?」 「あ、いや。ボクは赤は苦手だから……」 「あら、そうだったかしら? じゃあ、スプマンテを開けるわね」 奥サンは、今度は反対側に首をかしげると、スリッパの足音をパタパタ響かせながらキッチンに戻って行った。 ボクは、シチューにスプーンを突っ込んだ。 表面に回しかけられた生クリームをマンベンなくカキ混ぜると、ホロホロに崩れた肉片がスプーンの先にカラミつく。 たまらず口にほおばると、今まで味わったことのない未知の風味が、ボクの舌の上と鼻の奥を熱く満たした。 きっと、ずいぶん時間をかけて下ごしらえをしてからジックリと入念に煮込んでくれたんだろう。 想像したほどのクセは、まるで感じられなかった。 むしろ、信じられないくらいにナメラカで洗練された舌ざわりがボクを感動させる。 「ねぇ、これって、なんの肉なんだい?」 「さあ? なんだったかしらぁ……」 あらたに開けたスパークリングワインを新しいグラスに注いでくれながら、奥サンは、はぐらかすみたいに微笑んだ。 ――そういうところが、ボクは最近、なんだかとても鼻につくんだ。 いきなりそう言ったら、キミは、どんな顔をするだろうね。 でも言えるわけない。 なんといっても、キミのお父さんは、ボクの職場のオーナーだからね。 言えるわけないんだ絶対に。 ボクは、なかばヤケクソでシチューをすすった。 熱が冷めて表面に薄い膜が張る前に。なにがなんでも平らげなきゃ。 そうでなきゃ、この先いいことなんて何にもないような気がして。 小学生の頃、学校から家に帰る道すがら、「横断歩道の白いラインから足を踏み外したらボクはすぐに死んでしまう」って、勝手に自分に呪いをかけたときみたい。 「ねえ、そう言えば。リカからメールがあったのよ、今日」 奥サンは、そう言いながら、ようやくエプロンをはずし、自分の分のシチュー皿を持ってボクの向かい側の椅子に座った。 ボクは、ハフハフと口の中の肉片を咀嚼(そしゃく)しながら、アイマイに問い返す。 「へぇー。なんて?」 「結婚記念日、おめでとう……って。ヒトのうちの結婚記念日なんて、よく覚えてるわよね、あのコ。いくら幼なじみったって」 「まあ、リカちゃんは、ボクらの結婚式のときに、いろいろ手伝ってくれたりもしたから……」 そう言いながらせわしなく皿をカキまわしていると、スプーンの先で「カツン」と小さな金属音が鳴った。 スプーンで探ってすくい上げると、ハート形のダイヤモンドのピアスがひとつ乗っかっていた。 「まさかキミ……この肉……っ!」 絶叫(ぜっきょう)より先に、胃袋の中のものがあらいざらい食道をセリあがってきた。 滝のような吐しゃ物(としゃぶつ)と一緒に、ボクの意識も流れ落ちた。 目が覚めると、ボクは、ダイニングの床に寝転がっていた。 床は掃除されていたが、ボクのアゴとシャツは吐しゃ物(としゃぶつ)にまみれたままだった。 奥サンの姿は、どの部屋にも見当たらない。 ――どうしよう。電話をかけてみようか? ダイニングの椅子の背に引っかけていた背広のポケットを震える手で探り、スマホを取り出してみれば、ほんの10分前にリカからメールが届いていた。 『ゆうべアナタのマンションで、ピアスを片方なくしてしまったみたいなの。たぶん浴室のあたりだと思うんだけど』 ガックリとテーブルに手をついてうなだれると、ハート形のピアスを沈めたフルートグラスの下に、離婚届が広げてあるのに気付いた。  おわり
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