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 名残惜しいが、そろそろ帰ろう、と心に決めたとき、佳恵さんが「そろそろご出発なさる?」と尋ねてきた。また声に出ていたんだろうか。 「ええ、長く居すぎて本当にご迷惑をおかけしました。あのご病気のかた姿が見えませんね」  朝、何気なく覗くと部屋はきれいに取り片付けられていたのだ。 「あの方も出発なさいましたよ。お元気になられて」 やはり湯治客だったんだなと俺は納得した。 「長いことお世話になりました」 「元気でね」 「請求書は宿帳の住所に送ってくださいね」と念を押したが、源蔵さんも佳恵さんも笑うだけだった。そのうえあろうことか千円札を10枚貸してくれたのだ。田舎の人にしても人が良すぎるだろう、俺は深く頭を下げた。 「これ、忘れ物よ、帰ったら開けてちょうだい」  佳恵さんが俺に小さな紙包みを手渡した。俺はそれをポケットに入れると宿に背を向け踏み出した。  あれ。  俺はこんなに山深いところまでどうやって来たのか。バスだったか。きっとバスだろう。バス停の場所を聞かなくては、と振り返ると、ゆらゆらと旅館の大きな提灯がゆらぎ、立派な茅葺きの屋根がゆらぎ、宿の前で手を降っているふたりの笑顔がゆらぎ、尾を元気よく振りたてているシロが揺らぎ、どんどん薄くなっていく。 「何なんだ、いったい」  宿のあったところにはぼんやりとかすんだ灰色の空間が広がっていた。周囲の景色も消えた。ほの白い空間のなかに俺は立っていた。ただ前にだけ道が伸びている。  どういうことだ。俺は仕方なくひたすら道を歩く。歩く。歩く。  朦朧とし始めたころ、眼前に芽吹いたばかりの萌黄色のブナの林、その後ろに針葉樹の深緑、さらに後ろに雪をいただいた峰々が現れた。  よかった。俺はだらしなく膝から崩れ落ちた。
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