五 遠野依織

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五 遠野依織

 期末考査前で、生徒の早く帰った放課後の中等部校舎は、寂しいほど静かだった。換気のため開けた窓から、冬の乾燥した空気が入りこんでくる。 「テーブルに胸を打って、肋骨を折ったんですって?」  中等部のカウンセラーである宇佐美が、十数冊ものファイルを脇に抱えて言った。丸顔の、愛嬌のある中年の女性で、遠野とは年に何回か打ち合わせや引き継ぎを行う程度しか顔を合わせたことはない。 「ええ。もう治りましたけど」 「運が悪かったわねぇ。そんな状態で、手伝ってもらって悪いわ。どうしても棚が足りなくなって。あ、そんな重いものは持たないでちょうだい。傷にひびくでしょう」  と、ファイルの詰めこまれた段ボール箱を持ち上げようとした遠野を止める。肉付きのいい手を慌てて突き出すしぐさに、遠野は思わず苦笑した。 「男手が来た意味がないじゃないですか」 「整理を手伝ってくれるだけで充分よ。先生は、そこに積まれてるファイルを別の段ボール箱に入れて。しばらく保管したら、もう廃棄してしまうから」  おとなしく言う通りにする。部屋の隅には何十冊もの薄いファイルが雑多に積み上げられていた。  軽くぱらぱらとめくってみる。転校や別の高校への進学でもうこの学園にはいない生徒、高等部に進学はしたが中等部時代の一、二回のカウンセリングで終わり、すでに問題なしと見なされた生徒のファイルらしい。見覚えのない生徒の名前がほとんどだ。  当たり前か、と心の中でつぶやき、ファイルをすべて段ボールに入れようとしたとき、見覚えのある名前が目に入った。  思考が凍りつく。意識より先に、指が勝手にページをめくりだす。  宇佐美も二年ほど前に着任したばかりだから、日付からしてこのカウンセリングのメモは前任者が書いたものだ。一回のカウンセリングにつき半ページほど、内容をかいつまんだ記述が大きな字で走り書きされている。  カウンセリングは三回で終わったらしく、三年前の六月で止まっていた。それ以降のページもめくるがまったくの空白で、問題は解決したものとして遠野に引き継がれなかったのだろう。  それでもページから目を離せない遠野に、宇佐美の快活な声がかけられた。 「先生はお掃除の途中に、マンガを読み出すタイプかしら」  嫌味なく、子どもを見るようにくすりと笑う。 「……すみませんでした」  無理に笑みを返し、持っていたファイルを段ボールの中に置く。その上に他の生徒のファイルを次々と積み重ねていくと、例のファイルはすぐ、完全に埋もれてしまった。
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