一 中尾太平

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一 中尾太平

 出勤して五分、仕事場であるカウンセリングルームのロッカーにジャケットをかけたとたん、内線の電話が鳴った。  関東のある県に位置する中高一貫校・宮野塚(みやのづか)学園の高等部に勤務して三年、遠野(とおの)(ささぐ)はこの朝の内線電話の音がすっかり苦手になっていた。彼の本来の仕事、学年主任との情報共有に割くべき時間を、より難しい仕事に費やすことになる前兆だからだ。  それでも受話器を取ると、聞き慣れた事務員の声が、校長先生がお呼びですと告げてきた。ため息がもれそうになるのをやっとのことでこらえる。学年主任の先生方に事情を伝えておいてください、と伝言を残して、受話器を置いた。  高等部校舎はコの字を左右反転したような形になっており、角の二箇所に階段が、北側の廊下沿いにカウンセリングルームと、その隣にエレベーターホールがある。一階の校長室に行くにはエレベーターを使うのが楽だが、あえて教室の前を通り、生徒の様子を軽く見るほうがいい気がした。授業中でも意外と雰囲気は感じとれるものだ。  加法定理の説明をするしゃがれたベテラン教師の声を左手に、イチョウの色づく中庭の吹き抜けを右手に廊下を渡る。九月のはじめにしては開いた窓からの空気が少し肌寒かった。  二年生の教室をふたつほど通り過ぎたあたりで、遠野はふと違和感を抱いた。この学校は不良校というわけではないが、みながみな、お行儀のいい学校というわけでもない。数回簡単なカウンセリングで顔を合わせただけの仲だというのに、教室の窓からくしゃくしゃに丸めたノートの紙片(だいたいどうでもいい落描きが描いてある)を投げつけてくる生徒もいる。  しかし、今日はどこか生徒の様子がおかしい。私語が多いのは科目担当の教諭によってはめずらしくないが、いつもの私語とは少し違う。まるでちょっとした地震が起きたあとのように空気に落ち着きがなく、不安と戸惑いが皮膚にまとわりついてくる。  こういう周りの空気に敏感なのは職業病、というより、遠野の持ち合わせた才能に近かった。校長室で何を切り出されるのかは分からないが、嫌な予感しかしない。
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