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中等部での手伝いを終えて高等部の校舎に戻り、自分の仕事を片付けていると、いつの間にか七時を回っていた。窓の外では夜が夕暮れの名残を侵食しつくし、明かりの消えた向かいの校舎の教室はほとんど見えない。
紗栄子は、まだいるだろう。
荷物と上着を持ち、自販機に寄ってから職員室に向かった。思ったとおり、ほとんどの教員はまだ仕事中だ。紗栄子もいつもの机の前に座って、集めたノートにチェックを入れている。
「梨本先生、お疲れ様です」
席の隣に立ち、蓋がオレンジ色のペットボトルを二本差し出す。
紗栄子は遠野を見上げた。突然の差し入れに少し驚いたようだったが、すぐに微笑むと、そのうち一本を手に取った。
「まだかかりそうですか」
「そうですね、あと少し」
遠野はちらりと周りを見渡した。溝口はコピー機の調子がおかしいのか、腹立たしげにあちこちのカバーを開けている。須賀は職員室にはおらず、あとの二年の担任もそれぞれ席を立って、ほかの教員と話している。
わずかに紗栄子に顔を近づけて、遠野はささやいた。
「仕事が終わるまでお待ちしてます。駐車場の近くの花壇で」
紗栄子は温かいペットボトルを指で包み込みながら、遠野の目を見てうなずいた。
まだ事件のしこりが残っているのか、どこからともなく教員の視線が刺さってくる。遠野は職員室を足早に出ると、自分の指定した場所で足を止めた。
十一月にもなると、襟元から冷たい空気が流れこんでくる。校内で待っていたほうがよかったかもしれない。温かい紅茶のペットボトルを開けかけ、少しためらってカバンの中に入れた。
予想通り、紗栄子は十五分もせずに現われた。
「お待たせしました」
「いえ」
それだけ言葉を交わして、学校からの最寄駅に向かって歩き出す。改札を抜けてから、先に歩いていた遠野が振り返った。
「お宅への最寄駅は」
「総舎寺です」
「じゃあ、俺の家と逆方向だ」
と言って、総舎寺方面のホームへ歩き出した。
ふたりは電車内で終始黙ったまま、総舎寺の駅で降りた。改札は一箇所しかないが、駅前はそれなりに賑わっており、仕事帰りのサラリーマンが行きそうな居酒屋のチェーン店や、ファミレスがいくつか目につく。
間口の広い、アンティーク調の外装が施されている喫茶店を遠野は軽く指差した。
「立ち話もなんですから。どうです」
紗栄子の表情からは何も読み取れない。ただ、軽くうなずいただけだ。
店員に案内された席は、比較的ドアに近いところだった。遠野は店の奥をちらりと見て、
「すみません、奥の席は空いてますか」
と問いかけた。奥まった席には他に客がいない。店員は内心面倒な客だな、と思ったのだろうが、笑顔で「どうぞ」と案内した。
案内された席でバッグを傍らに置きながら、遠野は紅茶を注文した。
「梨本先生は、何にされます」
「ホットコーヒーを」
注文されたものが運ばれてくるまでの間、紗栄子が一度だけ沈黙を破った。
「依織さんの様子はどうですか」
「身体は相変わらずだけど、元気ですよ。むしろ、以前より登校するようになりましたね。クラスの子が助けてくれるから、思ったより不便をしてないんだとか」
そうですか、と言い、紗栄子はかすかに笑った。
それきり、コーヒーと紅茶がふたりの前に置かれてしばらくしてからも、遠野は何も言わなかった。テーブルの上で祈るように握った両手に視線を注いだまま、じっとしている。紗栄子は遠野の言葉を待ちながら、コーヒーを静かに飲んだ。
遠野が顔を上げた。
「俺は君と、カウンセラーと教師として話をするつもりはない」
コーヒーカップを置いた紗栄子の目が、真っ直ぐに遠野を捉えた。
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