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【3】母とコーヒーとリハビリテーション
翌朝、すべての器具が体から外され、これからいくつかの検査が行われることを告げられました。
その際の医師の説明により初めて、自分が自動車に撥ねられ、三日以上意識不明であったことを知ったのです。
そして、奈津美が自分とは二つ年下の十六才で、高校一年生であることや、何より記憶に頼らない自分の本当の顔が、どんな風であるのかも。
フォーセンベリ家の女子にだけ伝わるとされるエメラルドグリーンの瞳は、濃い茶色へと変わっていました。
鏡の中からこちらを見返すその目は、年齢の割に幼さが残る顔の、案外バランス良い位置に配置されています。
毎日丁寧に手入れをしていた橙色の長い巻き毛も、黒いショートのストレートヘアに変わっていました。
これくらいの長さであれば、もう侍女にセットを手伝ってもらう必要もなさそうです。
(やっぱり私ではなくなっていたのね)
月島奈津実となったメルタは、鏡に映った自らの顔を見て、自分でも意外でしたが案外平静でいられました。
夜が明けるまでの間に、真実を受け入れるだけの準備ができていたからかもしれません。
(この顔も思えば悪くはないのかもしれない)
実のところ、そこには奈津美の嗜好に基づく脳内フィルターが掛かっているのですが、おそらく本人がそれに気付くことはないでしょう。
(けれどやっぱり……)
メルタは自分のアイデンティティを失ってしまったことに、ひどく落胆してしまったのでした。
一方、病院からの報せを受け、朝一番でやって来た母の顔はというと、どれほど心配していたかが一目でわかるほどに強張っていました。
ただ、いくつかの検査に立ち会って、その良好な結果に触れると、奈津美と似た特徴を持つその顔も徐々に和らいでいったのです。
その様子については、メルタがしっかりと確認をしていました。
奈津美がこの母親にどれほど愛されているかを知る事は、メルタ自身の今後にとって非常に重要な情報となるのは間違いないのですから。
幼い頃より母娘二人で助け合って生きてきただけに、互いを思いやる気持ちは人一倍強いのだと感じられます。
しかしそれゆえに、メルタは、自分が本当は奈津美ではないというのを言い出せずにいることを、とても心苦しく思っていたのでした。
もしそんな事を言えば、母はさらに心配を募らせることになるでしょうし、場合によっては、医師の方が退院させまいとするかもしれません。
すべてを告白して、改めて診察を受けるべき……とも考えなくはありませんでしたが、今は早く退院して、新たに情報を仕入れたいという気持ちの方が強かったのでした。
(本来のこの体の持ち主も、今頃はリューブラントで、同じように不安に感じていたりするのかな)
泣けば必ずや不審に思われるはず、そう思って堪えるようにはしてきたのですが、それでも体が反応するのは止められないこともあります。
時間が経つにつれて、もう帰れないのではないかという不安が確定していくのを体感し、耐えられなくなっていたのでした。
意識せずに流れた涙を、母は見ていました。
「あら、突然どうしたの?」
「えーと、…………それが、まだこの体というか、心が慣れなくて……」
「心配いらないわ。大丈夫。慣れるまで私が付いていてあげるから」
心が慣れていないという変な表現に、メルタも母も気が付かなかったでしょうか。
「頭が、ちょっと痛いかな」
「大変、この後のリハビリは休ませてもらいましょう」
「あ、いえ。薬で何とかなりそうな程度なので……」
検査でも脳機能には問題ありませんでした。ただ、メルタにとっては何もかもが初めてづくしであったため、目が覚めて以降、脳が休まる暇がなかったのです。
何かの道具を目にするたびに、記憶の中からその情報が甦ってくるのですが、同時に甦ってくる付随情報があまりにも多く、それらを整理するのがとても大変なのでした。
不安なのも、悲しいのも、強制的に脇に追いやられてしまうほど、考えなければならないことが多いために、彼女はストレス性の頭痛と熱に苦しめられるようなっていたのです。
心配した母が医師に相談した結果、退院は大事を取って一日延ばされたのでした。
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