母は言わず

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子どもの俺に母さんのことを教えてくれたのは、当時の助産師だった人だ。俺を、冷たい母親の体から取り上げてくれた人。 死体から生きた赤ん坊が出されるのは稀らしい。どれだけ稀なのかは知らなくていいことだって、その人は言っていた。大事なのは、今俺が生きてその人の話に耳を傾けているということ。そう、優しい声で言っていた。 俺が産まれた寒い日のこと。母さんが病院に搬送された時のこと。母さんが息を引き取った時のこと。母さんの腹の中に赤ん坊がいるってわかった時のこと。その赤ん坊が、生きているとわかった時のこと。 それと、母さんがどんな人だったかを、少しだけ。 その人は俺に解りやすく話してくれたんだと思う。でも、子どもの俺が思ったことはいつも同じだった。 おかあさんにあいたい。 ただひたすらに、母さんという人に会いたかった。赤ん坊だった俺がずっと一緒にいたはずの人。ずっと一緒だったのに別れてしまった人。 胎の中に戻りたいってわけじゃなかった。でも、その人の温かさが恋しかったんだ。母さんの体温が欲しかったんだ。 ずっと一つだったのに。ずっとへその緒っていう一本の管で繋がっていたのに。俺は母さんから切り離された。 おまえはもういらない。 そう言われた気がしたんだ。 父さんからは悪いと言われ続け、更には母さんから要らないと言われないといけないのか。俺は泣いた。 「おかあさんにあいたい」 「おかあさんにあいたい」 「おかあさんにあわせて」 俺は泣き続けた。 そんな俺の背中をさすって、頭を撫でてくれたのが助産師さんだった。 話もろくに聞かない子どもを、その人は優しく見守ってくれた。 君は生きていていいんだよ。生きてくれ。あの人の分まで、生きてくれ。 その人は。その男の人は、俺を見て、話しかけて、抱き締めてくれた。母親が与えるべきだった温もりを、その人は俺に与えてくれた。 俺は、その人に育ててもらったんだ。生きていていいんだって、生きて欲しいって言ってくれたその人。 顔も思い出せないけど。 声も思い出せないけど。 でも、その人の温かさだけは覚えているんだ。 大切なことを教えてくれた助産師さん。それを知るのは俺が中学にあがるくらいの時だ。 だって、俺は遅刻常習犯。全部が遅れてしまう。 俺は。 俺がその人に何かを伝えようと決めたその時には、もう、その人はこの世にはいなかった。ありがとうも言えなかった。でもその人は、ずっと俺の側にいてくれたんだ。たくさん、教えてくれたはずなんだ。 気づいた時にはもう亡くなってしまっていたその人。 俺に生きて欲しいと言ってくれたその人。 「君は、いらなくなんてないよ」 俺の心にその人の言葉が届いた瞬間、前を向こうと思ったんだ。母さんの分も、その助産師さんの分も生きていこうって、心から強く思ったんだ。 遅くなったけど、やっとそう思えたんだ。 助産師さんは、俺に一通の手紙を遺してくれた。いつか追い付いてくれますようにと願いを込めて、小さな子どもの俺の手にその手紙を握らせた。 「産まれてきてくれてありがとう」 ただそれだけ書かれた一枚の紙と、それに包まれた干からびた肉の管。 俺と母さんを繋げていた、へその緒だった。 大事な大事な想いのこもった、封のされた手紙。 それは俺の手の中に今でも握られている。 みんなと逢う約束の、同窓会の案内と一緒に握られている。 父さんは相変わらず何かを言っていた。黒い煙を吐き出しながら、俺に唾を振りかけていた。 すごく、すごく、嫌だった。悪い奴だ、全部こいつのせいだ。俺の耳には聞こえていた。 でも、もう。産まれてこなきゃよかったとは思わなくなった。 俺は遅刻常習犯。 やっと、自分の意思で生きていきたいと思った。そんな子ども時代。 遅いよな。 出逢いは遅くなかったのに、その意味を知るのが遅すぎた。俺は今でも後悔している。 でも、出逢ったその人たちは俺のことをわかってくれていた。遅れる俺のために何かを残して、先にいってくれた。 だから俺は、焦らないでその人たちを追いかけることができた。遅れてもいいから、自分のペースで歩んでいくことができた。 おい、友人A。 いい加減思い出したらどうだよ。 お前が待っててくれたのは、この俺だぞ。 この、遅刻常習犯だぞ。 待たせちゃったけど、ちゃんとお前のところにやって来た。 はやく思い出せよ。 思い出してくれよ。 生きて待っててくれたお前に、ありがとうって言いたいんだ。 はやく思い出してくれよ、友人A。 思い出すまで、今度は俺がお前を待っててやるからさ。 友だちだろ、俺たち。
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