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卒業
駐車場の身体障害者用のスペースに停めて、運転席から車椅子に移乗してドアを閉める。俺は目の前にそびえ立つ建物を見上げた。
交通事故に遭ってからずっと世話になってきた病院。苦い記憶も幸せな思い出も詰まったこの病院から、今日俺たちは卒業する。
「真也くん、どうしたの?」
横に立った香織さんが不思議そうに俺の顔をのぞき込んだ。
「いや、何か不思議だなって」
「あたしも同じ気持ち。何だか全然知らない場所のよう」
照れ臭そうに笑う香織さん。先日のクリスマス会の数日後にアルバイトも辞め、もうこの病院の麻酔科医ではない香織さんは、今日は普段着に身を包んでいる。帰宅してからも荷造り作業が待っているため、動きやすいパーカーとジーンズだ。
「予約時間、遅れちゃう」
「そうだな」
俺たちは並んでエントランスまで歩いた。
名前を呼ばれて、整形外科の診察室へ入る。迎えてくれるのは、入院当初から世話になっている主治医の立石先生。
「お願いします」
いつも通りに診察が始まる。何か変わりはないか、困ったことはないか。丁寧な質問に、丁寧に答えていく。時には背後の丸椅子に座る香織さんが質問されることもあった。
最初は立石先生のことが憎くて仕方がなかった。俺に、もう二度と歩けないことを告げた人だったからだ。思い返せばずいぶん幼稚だったし、逆恨みもいいところだ。時には、診察を拒否したり処方された薬を飲まないでこっそり捨てることもあった。
そんなどうしようもない患者に、立石先生は時に優しく時に厳しく、そして常に根気強く接してくれた。香織さんがいたからこそ俺は立ち直ることができたのだとずっと思っていたが、今ではそれだけではないとわかる。立石先生が担当でいてくれたからだ。
「増井さん。これまで本当によく頑張りましたね」
診察が終わって何か言わないといけないと思っていたら、思いがけない言葉がかけられた。
つい涙腺が緩んでしまい、俺は下を向く。涙がひとつ、何も感じない太ももに落ちた。
「……」
「僕もね、じつは今年度でここを卒業なんです」
思わず顔を上げると、立石先生の目も赤くなっていた。
「別に増井さんに合わせたわけではないですが、僕も故郷の医院を継ぐんですよ」
立石先生の故郷は小豆島だという。
「先生も同じ島の医院だってこと、あたしにとっても心強いです」
香織さんが口を挟んだ。
「そうですね。増井先生にとっても大きな飛躍になりますよ」
俺も何か言わなきゃ。気持ちばかりが焦って肝心の言葉が出ない。
「せ、先生」
だが若干前のめりで呼びかけてみると、あとを継ぐ言葉は案外するする出た。
「俺、先生のおかげでここまでこられました。どうしようもない患者だったけど、今まで本当にありがとうございました」
勢いよく頭を下げた。ふたつ、みっつと太ももに涙が落ちる。
頭を上げられない俺の視界に、手が差し出された。俺は立石先生の力強い右手をしっかりと握った。
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