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会計をするために、受付前の長椅子に香織さんが腰を下ろし、俺はその横に車椅子をつけた。何となしに反対側の長椅子を見やると、友達の鈴木さんがスマホに視線を落としていた。
「鈴木さん」
俺が呼びかけると、鈴木さんは顔を上げる。
「おお。真也も今日診察だったのか」
「ええ。今日で最後です」
「春になったら、写真館の店主だもんなあ」
鈴木さんは俺の大切な飲み友達だ。俺たち夫婦が淡路島に移住すると決めた時、真っ先に報告したのが鈴木さんだった。来週、鈴木ファミリーと忘年会を兼ねた送別会をすることになっている。
「たぶん、最初はお客さん来ないと思いますけど」
「まあ、困ったら俺を呼んでよ。うちの瞬がモデルになれば、たちまち客入りは上々だ」
「そうですね。瞬はいいモデルになる」
瞬というのは、鈴木家待望の長男だ。いたずら盛りで俺にもよく懐いてくれる。鈴木夫妻や瞬との別れはつらいが、きっと早々に世話になる気がしている。
「ずいぶん弱気だなあ」
あきれ顔で鈴木さんが笑う。
「だって、いくら出張写真館っていっても、俺こんなだし……」
俺が開業しようとしているのは、無謀にも出張して写真を撮る形態。一応写真館としての設備は整えているものの、あくまで出張を売りにしている。車椅子での生活だが、やはり風景とは切って離せなかった俺がいきついたやり方。美しい背景で、人物がより輝く瞬間を切り撮る。俺にはこのやり方しかないと思った。
「自信持てよ。俺は、真也の写真の一番のファンなんだからさ」
「ありがとうございます」
いつも弱気な俺を励まし、時にはきつい言葉でたしなめてくれた鈴木さん。彼も俺の人生になくてはならない人のひとりだ。
「でさ、真也たちが引っ越すのって年明けすぐじゃん。四月の開業までは何かと忙しいとして、ゴールデンウィークには遊びに行けるかな?」
「いや、もうちょっと自力で営業したりとか……」
落ちるはずだった涙は引っ込んだ。いや、これが鈴木さん流なのだと、今ではわかる。
「じゃあ決まりね」
「はい。玉ねぎ料理でもてなしてあげますよ」
「……獲れたての魚がいいんだけどな。新鮮な淡路の魚……」
ちょうど会計で呼ばれた俺は、聞こえなかったことにしてカウンターへ向かった。隣で香織さんが笑いをこらえていた。
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