38人が本棚に入れています
本棚に追加
会計が終わると、もうこの病院に用事はない。だが俺たちには行っておきたい場所がまだいくつかあった。
受付のある一階からエレベーターに乗って、いったん二階に上がる。そしてそこから渡り廊下でつながっている別館へと向かう。
「あたし、ここを歩くのが好きだったな」
ぽつりとつぶやいた香織さんに、ふとハンドリムを回す手が止まった。そして再びハンドリムを回して、渡り廊下の端に車椅子を寄せた。
窓ガラス越しに見える街路樹。今はまだ冬枯れの街路樹だが、あと半年もすれば青々とした新緑の季節を迎える。その頃俺たちは淡路島。きっとあの街路樹の芽吹きを見ることはもう二度とない。カメラを持ってきたらよかった。ふとそう思った。
「俺も、竜崎先生とここを歩くのは好きだった」
まだ俺が元患者の増井さんで、香織さんが元麻酔科担当医の竜崎先生だった頃。偶然を装って病室を訪れてくれた香織さんと連れ立って、よくここを通って売店に行っていた。
「麻酔科の医局から真也くんの病室までは本当にめんどくさい移動でね」
「そういえば、そんなこと言ってたね」
本館の医局のある階から二階に下りて渡り廊下で別館に赴き、また俺の病室のある階へと上る。そんなめんどくさい移動を経て、毎日のように香織さんは俺に会いに来てくれた。
「めんどくさかったのね、最初はやっぱり」
「うん」
向かい合わず、ふたりとも窓の向こうの街路樹に視線をやったまま。高さの違いはあるが、ふたりともきっと同じところを見ている。ただ、もうあの街路樹の芽吹きを見ることは二度とないと感傷的になった俺に対して、きっと香織さんは別のことを感じているに違いない。それで、いやそれがきっと一番いい。あの頃には不確かだったことが、今はそう確信できる。
「でも今になって考えてみると、あのめんどくさい移動が、あたしを医師からただの女に変えていたんだなって思う」
「俺でよかったんだよね」
「じゃなければ、わざわざ会いにいったりしないよ。本当にめんどくさかったんだから」
見上げると、香織さんが視線を合わせて微笑んでくれた。俺も微笑みを返す。
「淡路島に行ったら、もっともっと幸せになろうな」
「もちろん」
病院の渡り廊下にいることをついつい忘れてしまった。
最初のコメントを投稿しよう!