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渡り廊下を渡り切り、またエレベーターに乗る。降りた階にはリハビリルームがある。
「ちょうど午前のリハビリが終わったところみたいだね」
リハビリルームから続々と患者たちが出てくるのが見えた。悔しそうな顔をして車椅子を漕ぐ人、誇らしそうな表情で杖を突いて歩く人。かつて俺もそのひとりだったんだと思うと、少しだけ胸が痛んだ。あの頃の俺は、たいてい悔しい思いであの部屋から出ていたはずだから。
最後にリハビリルームから出てきた、小柄な女性。彼女は俺たちを認めると小走りで近づいてきた。
「増井さん!」
俺のリハビリ担当の理学療法士だった井本さんだ。
「井本さん、お久しぶりです」
「お疲れ様です」
俺たちが交互にあいさつをすると、井本さんはぐっと俺に顔を寄せてきた。
「聞きましたよ。ご夫婦で淡路島に移住されるとか」
「さすが、噂が回るのは早いな……」
俺の横で香織さんもあきれている。
「ここで立ち話も何だから、デイルームに移りましょうか」
井本さんの先導でデイルームに移動した。もとから車椅子に座っている俺はともかく、香織さんと井本さんはデイルームの端にたたんで置いてあるパイプ椅子を机のところに持ってきている。さらに机の上には紙コップのコーヒーがみっつ。最近デイルームに設置された自販機のものらしい。
ささやかな餞別だと俺たちにコーヒーを買ってくれた井本さんは言う。
「やっぱりリハビリ病棟って病院の中で一番社会に近いところじゃないですか。だからみなさん、外で買えるものを気軽にデイルームでも飲みたいって」
「確かにな……。俺もそうだったな。甘いカフェオレとか、絶対に病院食で出ないもんな」
何となしに香織さんを見やると、少し寂しそうな表情で微笑んでくれた。
「それで増井さん。聞いたところによると、淡路島で写真館を始めるとか?」
どこまで噂が飛び交っているんだよと苦笑しつつ、俺は答える。……まあ噂の出どころは香織さんに間違いないだろうが。
「はい、一度は諦めかけた写真の道を、もう一度歩もうと思います」
「素晴らしいです!」
まるでリハビリ時の熱血指導のような調子で褒めてくれる井本さんの目は、もうすでに赤かった。
目頭を拭いつつ、井本さんは続ける。
「近いうちにわたし、っていうかわたしと彼、増井さんのお客になると思います」
「えっ」
「井本さん、もしかして?」
赤面した井本さんに、今度は俺たち夫婦が驚く番だ。
「ええ。この前わたし、プロポーズされました」
介護福祉士の彼氏から先月プロポーズされたばかりだという。
「おめでとうございます」
「ぜひ、俺に写真撮らせてください」
口々にそう言う俺たちに、ますます赤面する井本さん。やはりカメラを持ってくればよかった。井本さんの彼氏に、あなたの婚約者はあなたのことを思ってこんなにもいい表情をするのだと教えたい。
その場でLINEのアカウントを交換した。
「今日にでも、彼に話しますね」
「ありがとうございます。ご連絡をお待ちしております」
腕時計を見てあまり時間がないと悟ったのか、井本さんが立ち上がってパイプ椅子をたたんだ。
「すみません。もうあまり時間ないので、わたしそろそろ行きますね。もうちょっとお話していたかったですが、おふたりはごゆっくりコーヒー飲んでいってくださいね」
だが、俺は井本さんに言っておきたいことがあった。
「ちょっと待って。すぐに済むから、ちょっとだけ」
動作を止めた井本さんに言葉を続ける。自然にすっと背筋が伸びた。
「俺がここまで回復できて、その上写真館までできるように鍛えてくれたのって、井本さんの指導のおかげです。俺、本当に感謝しています。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
いつの間にか、香織さんも立ち上がってお辞儀をしていた。
「……わたしにとっても励みになります。担当していた患者さんがこんなにも立派に社会復帰されて……」
そろそろと顔を上げた俺の前にひざをついてからすんと洟をすすり、井本さんはあの頃のように熱く言う。
「でも、わたしの教えたことを忘れないで。ちゃんと筋トレは欠かさずに。体重を増やし過ぎないように」
「はい。ちゃんと俺、言いつけを守って万全の態勢でおふたりの門出を祝います」
井本さんが手の甲を差し出したので、俺も香織さんもそれに倣う。体育会系の部活かよと馬鹿にしたくなるが、きっとこれも井本さん流の涙の散らせ方なのだ。
三人の大人が何とも照れ臭そうに「おー!」と掛け声をかけた。だが、いい年して楽しかったのは内緒の話だ。
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