卒業

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 またエレベーターで二階に戻り、渡り廊下を経て本館に至る。今度は本館のエレベーターで上層階に向かう。  エレベーター内の鏡にうつる自分の顔を見る。香織さんと出会った頃は二十八歳だった俺ももう三十四歳。ついにアラサー最後の年になってしまった。生き様が顔に出るというが、俺の場合はどうだろうか。自分ではわからない。だが曲がりなりにも家族を持った俺。あの頃よりしっかりしていると信じたい。  チン、という音を立ててエレベーターが止まる。  かごから降りると、冷たい風がさっと頬をなでた。  俺はかつての居場所であったベンチに車椅子を進める。その間に香織さんは俺の側を離れて自販機で飲み物を買っているようだった。さっきリハビリ病棟のデイルームでコーヒーを飲んだというのに。 「はい」  差し出された缶を受け取る。温かいミルクティーの缶。記憶がよみがえる。これは、初めて香織さんの誕生日をここで祝った時に、俺が買ったものだ。 「まだこんな細かいこと、憶えてくれてたんだ……」 「当たり前じゃない。あたし、ちゃんと憶えてるよ」  香織さんがベンチの真ん中に腰をかける。その意図を汲んで、俺もベンチに移乗する。あの頃にはできなかった動作。だが今の俺にはできる。  ぴったりと身を寄せて、俺の肩に頭をもたせかけてくる香織さん。俺はその肩を抱き寄せる。 「……いいの? ここでこんなことしても」 「いいの。あたしはもうここの先生じゃないから」  寒さをふたりで共有する。冷たい風が吹くが、大して寒いとは感じない。むしろ寒くて空気が澄んでいるから、明石海峡大橋と淡路島がくっきり見えていい。来月から俺たちの拠点となる淡路島。 「何か不思議だね」 「うん。ここから眺めていつか行きたいって話していたのが嘘みたいだ」  もう二度と歩けないと知った俺が、再起を誓ったのがこの眺めだった。俺は車を運転できるようになって、香織さんとあの橋を渡りたいと思った。それがつらいリハビリの原動力となった。竜崎先生だった香織さんと何度もあそこに行こうと夢を語り合った。 「行くどころか、来月からあたしたち、あそこに住むんだもんね」  おかしそうに香織さんが笑う。つられて俺も笑う。幸せすぎて泣きそうになるのを、ぐっとこらえる。香織さんを抱く腕に力を込める。 「香織さんはそんな未来、考えてた?」 「ううん。考えもしなかった」 「後悔してない?」 「真也くんこそ、どうなの?」  胸に香織さんの温かさを感じながら考える。後悔していないと問われれば、後悔している。何と無謀なことに挑戦するのだという後悔。だが、俺の胸を占めるのはこれまで温めてきた熱意や、誰かが誰かを愛する気持ちを切り撮ることができるという確信、そしてその場が与えられた喜び。俺の心は希望や夢でいっぱいだ。 「俺は、きっと向こうに行っても俺らしく生きられる」 「そう。よかった」 「だけどさ」  そう言って俺は、肩を抱いていた腕をほどいて、今度は両手で香織さんの両腕を軽く押さえた。ベンチに腰をかけたまま、香織さんが俺の方に身体を向ける。 「それはどこに行っても香織さんが俺のそばにいてくれるからだよ」  香織さんが俺の目をまっすぐに見据えていたずらっぽく笑った。 「あたしも同じ思い。でも、だからこそ、早く帰って荷造りの続きをしないとね」 「はーい」  結局飲まなかったミルクティの缶を香織さんに預けて、俺はまた車椅子に移乗した。
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