原点

1/4
前へ
/99ページ
次へ

原点

 おせち料理に飽きたからということで、正月三日は『ケーキ屋みのる』に足を運んだ。  思い返せばひょんなことからこの店を知ることになり、もう写真は撮らないのかと店長から問われたことがきっかけで、俺はもう一度カメラを構えてみようという気持ちになれた。その時は香織さんの表情を数枚おさえただけでまたカメラとは程遠い日々を送っていたが、その後鈴木さんと知り合って飲みにいくうちにカメラマンだったことを打ち明けたりもした。  それからは陥落するかのように俺はシャッターを切った。最愛の妻である香織さん。鈴木さんと見たあの日の夕暮れ。ミニチュアダックスフンドのゆめちゃんと飼い主さん。最初で最後の家族写真。友達のショータの生意気な笑顔。  今では再びカメラは俺にとってなくてはならないものとなり、今春からは写真館を開業することになっている。  だが俺の再起の一番初めのきっかけとなったのは『ケーキ屋みのる』だ。俺は当時店長だった中瀬さんとの短い会話を通して、写真を撮ることが好きなのだと気づかされた。  現在、中瀬さんは店長職を引退して、別の人が継いでいると聞いている。だからもう中瀬さんには会えないかもしれないが、俺が俺であることを再確認するきっかけとなった店を、この街から出る前に訪れておきたかったのだ。 「まあ、店長さんが変わっていてもいいわね。あたし、イートインスペースは初めてだから」  助手席で香織さんが笑う。  実家への手土産で『ケーキ屋みのる』の焼き菓子を買ったことはあったが、イートインを夫婦で利用するのは初めてだった。 「何か、俺ばかり食べに来て悪かったかな。だけど、神戸(ここ)を離れる前に香織さんをご招待できてよかった」 「こんな時じゃないと、なかなか行けないもんね」  そんな会話をしているうちに、車は『ケーキ屋みのる』の駐車場に滑り込む。  入り口に一番近い、身体障害者用の枠に駐車する。香織さんに用意してもらった車椅子に移乗し、俺たちは連れ立って出入り口に向かった。  この店の出入り口は自動ドアではなくて、押して開けるタイプのドアだ。ネットの口コミで「バリアフリーが充実している」という一文を目にして安心して訪れた俺が、このドアを眺めていい意味で期待を裏切られたことが思い出される。まるで自動ドアのごとく、手動のドアが開いたからだ。  介助者である香織さんが一緒でもそれは変わらないのか。少しだけ意地悪なことを思う。結果、香織さんが取っ手に手をかけようとした瞬間、開かれるドア。 「いらっしゃいませ」  女性店員のにこやかな笑顔に、俺も香織さんも嬉しくなる。  イートイン利用であることを告げて、客席に移動する。俺が過去に選んだソファ席に向かう。中瀬さんの亡き息子が撮った中瀬さんの写真と今の店長の写真が並べて飾られているソファ席。妙な魅力に惹かれて俺はその席を好んで利用していたが、今日は先客がいた。仲睦まじいご夫婦のようだ。だから俺たちは隣の席に陣取ることにしたが……。 「お久しぶりです。覚えていらっしゃいますか?」  ご夫婦の男性が立ち上がり、俺の方を向いて会釈をした。
/99ページ

最初のコメントを投稿しよう!

38人が本棚に入れています
本棚に追加