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「香織さん、何にする?」
ふたりでメニューをのぞき込むが、俺はもう決まっている。この店を初めて訪れた時に食べたショートケーキのセットだ。
中瀬さんの亡くなった息子さんが好きだったといういちごのショートケーキ。どこか懐かしい味わいが俺も気に入ったが、愛息子の好きな味を守り続けているのだろうか。だとしたら、それはとても素敵な話だと思う。
「あたし、チーズケーキのセットにしようかなあ」
香織さんがそうつぶやくと、隣の席から控えめな同意があった。
「わたしもね、じつはショートケーキよりもチーズケーキの方が好きなのよ」
中瀬店長の奥様がころころと笑いながら香織さんに言っている。今度はそんな奥様を愛おしそうに見つめる中瀬さん。俺も香織さんとこんなふうに年を重ねていきたい。ふとそう思った。
「じゃああたし、チーズケーキセットにします」
俺はショートケーキとカフェオレ、香織さんはチーズケーキとブラックコーヒーを注文した。
注文したケーキセットを待つ間、俺は中瀬さんに報告がてら話しかけた。テーブルを挟んで、ちょうど隣の位置だ。車椅子を少し、中瀬さんの方に向ける。
「俺たち、気軽にここに来られるのは、たぶんこれが最後だと思います」
少し間隔が開く。中瀬さんは微笑を浮かべたまま俺の言葉を咀嚼しているようだった。
「それはおふたりにとって、今までにない素晴らしいことがあったからですね」
きっと俺たちがまとっている空気からそう感じたのだろう。だが、的確に当ててくる中瀬さんに完敗だ。ふと見やった香織さんもぽかんとした表情をしている。
「じつは俺たち……」
俺は、夫婦で淡路島に移住すること、そこで夫婦それぞれ開業することを話した。中瀬さんも奥様もうんうんとうなずきながら俺のたどたどしい話を聞いてくれた。
「じゃあ、前におっしゃっていた写真。再び撮れるようになられたんですね」
自分のことではないのに目を赤くしている中瀬さんにつられそうになる。だが、俺が泣くわけにはいかない。
「はい。おかげさまで、もう何の躊躇なくカメラを持てるようになりました」
そこまで言って、俺は背筋を伸ばす。気分的には直立不動。
「あの時、中瀬さんが背中を押してくださったからです」
「いや、僕は何もしていませんよ。全て、ええと……お客様の……」
ここまで来て俺は自分の名前を名乗っていなかったことに気がつく。
「増井です。増井真也と言います」
「増井様。……全て、増井様がご自分でお気づきになられたことです。そして、今の増井様からは希望しかうかがえません。きっと、これからご活躍のことと思います」
じわじわと喜びが込み上げる。想像していた以上に、俺のことを気にかけていてくれた人は多いようだ。香織さんもやわらかな笑みを浮かべて俺を見ている。
「じゃあ、もしわたしたちが淡路島を訪れたら、写真を撮っていただけるのかしら……?」
奥様がふとつぶやいた。
「はい、もちろんです。出張写真館ですので、どちらにでも参らせていただき……」
勢いよく答えてしまい、俺は言葉を詰まらせた。
「……いや、スロープのあるところと身障者用の駐車場があるところに限らせていただきますが……」
ふふっという温かな笑みが、中瀬ご夫妻から漏れる。
「どんなところでもいいの。この人とのツーショットを撮っていただければ」
「僕もです。せっかく引退したんで、妻といろんなところに旅行したくて」
何という仲睦まじいご夫妻なのだろう。間違いなく俺たちの理想とする姿だ。
「じゃあ、それこそ真也くんの腕の見せどころね」
香織さんに言われて、カメラマンとしての自我が頭をもたげる。そうだ、どんなところでも被写体の幸せを切り撮る。それが俺のモットーだ。
「はい、ぜひおふたりのお幸せな現在を撮らせていただき、天国の息子さんにご報告できればと思います」
ちらりと見やった壁には、中瀬さんの息子さんが撮った写真。この写真に匹敵するような写真を撮ります。俺は心のうちで、亡き息子さんに誓った。
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