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あやしいお客さま
飛べない魔女は、空を飛ぶための薬『魔女の軟膏』を作らなければならない。直に肌に塗ることによって、一時的に空中浮遊の能力が得られる魔法の薬だ。人間が使用すれば、たちまち猛毒に侵されて長い眠りにつくという。調合は、0・0001グラムの誤差も許されない。しかし、コンマ何グラムの微小な量を計算できる秤が、この世界には存在しないのだ。
『魔女の軟膏』は、魔女が経営するどこの薬屋でも、商品として取り扱っていない。こればかりは妹たちにもセージにも作れない、超難関なのだ。
「よーし! 今夜中に完成させるぞ!」
ナナが拳を振り回したとき、扉がノックされた。作業のために扉の札を『CLAUSE』にしているはずなのに。ナナは扉の錠前を外し、ゆっくりと開けた。
赤髪の男がいた。常夜灯に照らされて影を落とし、ポーチに佇んでいる。硬直した表情で、土気色の唇だけを動かした。
「――薬を貰おうか」
冷たい鋼鉄に似た匂いがする。彼は悪魔だった。
今頃カーニバルに行っているはずの悪魔が、なぜここに?
「すみませんが、本日は定休日で……」
悪魔の鋭い眼光に射抜かれ、ナナはぞくりと背筋を震わせた。
*
来訪した客をハーブティーでもてなすのは、薬屋の大事な仕事のひとつだ。
ナナはヤカンで水を沸騰させ、ブルーマロウとラベンダー入りのお茶を淹れた。お茶の腕に自信がないので、見た目がピンク色の鮮やかなブレンドティーにした。
黒皮のグローブをはめたまま、悪魔は上品にティーカップを傾ける。悪魔がなにも語りはじめないので、仕方なくナナもカップを取った。お茶に口をつけたとたん、奇怪な味にふき出しそうになった。気が急いて乾燥葉の抽出時間を省略したせいだ。黙ってカップをソーサーにそっと戻した。
ナナは悪魔をチラと見た。
背が高く痩身で、窮屈そうに長い足を組んでいる。肌に潤いがなく、顔色が冴えない。まるで日陰の住人だ。年の頃は、ナナより幾つか年上だろうか。憂いのある眠たげな瞳が、カップに落ちている。重量感たっぷりの漆黒のロングコートは、屋内でも着たままだった。刃物を隠し持っていても不思議ではない雰囲気だ。鋼鉄の香りがする。恐かった。
「あのうー……お客様。それで、どんなお薬をご所望なんでしょうか?」
薬草屋はサービス業だから天気と景気の話から始めろ、とは母の遺言のひとつだが、時間もないし面倒でナナは本題から入った。悪魔が、なんだこいつという目つきで見てくる。
ナナはあせって話題を巻き戻した。
「最近、景気のほうはいかがですか?」
悪魔は億劫そうに首を回し、ナナを見てきた。
「景気……? そうだな。ぼちぼち……という所か。それがどうした」
「いいえ特には」
ナナは満面の笑みを浮かべた。再び長い沈黙が落ちる。足もとでセージが大きなあくびをした。だめだ間が持たない。ナナはまた声を出すために肺に深く息を吸い込んだ。
「それでお客様。お薬のほうは……」
悪魔という種族はどれだけのんびり屋なのか、さらに間をあけてハーブティーを三口ほど飲んでから、ようやく重い唇を開いた。
「そうだな。『魔女の軟膏』をもらおうか」
がちゃん!
ナナは指からカップを滑らせ、セージの頭にまっさかさまにかぶせた。
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