3人が本棚に入れています
本棚に追加
飛べない魔女のくすり
*
それからも、さまざまな細かい工程を重ねた結果、ようやく『魔女の軟膏』は完成を見た。
常夏の海のように輝く、ゼリー状の物質が、エスプレッソほどの容量の小さな硝子瓶におさまった。あまりの疲れに、手を叩いて喜ぶ元気も残っていない。
今夜で徹夜三日目のナナは、疲労の色が濃い瞳で、初めて目にする『魔女の軟膏』を穴のあくほど見つめていた。
「なあ……ひとつ、突っ込んでもいいか」
同じく疲弊したセージが、声を枯らせてつぶやいた。
「この軟膏、どう考えても一人の一回分だよな」
「せっかくつくったのにー!」
ナナは机に額をぶつけて苦悩した。
これだけ苦労してたった一人分、たった一回分の空飛ぶ薬である。妹たちは軟膏なんてなくても、易々と空を飛べるのに。ナナは己の無力さを痛感した。
「薬屋、すまない」
沈んだ声がした。顔を上げると、エプロンを外して帰り支度を済ませた悪魔が高い背を曲げて、ナナに頭を下げていた。あわててナナは椅子からすべり降り、悪魔に向き直る。
「いえ、いいんです。お客さんの依頼で作ったんだから、これはあなたのものです」
風が窓硝子をカタカタと揺らしている。夜もだいぶ深くなった。もう一人分の軟膏をつくる時間も体力も気力も、ナナたちには残っていない。
「それより早く行ってください。カーニバルが終わってしまう」
ナナは手にしっかりと軟膏の小瓶を持つと、悪魔に手渡した。悪魔は姿勢を戻して、ぼんやりと何度かまばたきすると、両手で小瓶をにぎりしめた。
「薬屋。私は、あんたの誠意に答えたい」
ナナは驚いて、はじかれたように顔を上げた。胸もとで祈るように指を組み、晴れやかな笑顔で軟膏の瓶に飛び掛かろうとした。
「譲ってくれるんですか!」
「いやそれはない」
「ですよね」
だったらもうなんでもいいよ、とナナがうなだれる前に、悪魔は悦に入って感慨深く語り始めた。
「今宵のカーニバルは、私の見合いの席がセッティングされているんだ。出席しないと非常にまずい」
「……はい?」
見合い? 突拍子もない単語に、ナナは笑顔を凍らせた。
「私は悪魔だが、魔力を持っていない。しかし立場上、無能を公にするわけにもいかず、毎年、弟におんぶされ、山まで運んでもらっていた。今年は運悪く、弟が骨折してな……ここが開いていて助かった」
ナナは石像のように硬直した口を、もごもごと動かした。
「あのう、お客さんの名前って――」
「すまない、申し遅れた。私の名はアルブレヒト。これでも魔王の長男だが、悪魔としての実力がないあまりに勘当寸前だ。今夜が嫁をもらう最後のチャンスなんだ。薬屋、感謝している」
優しい瞳で告げて、悪魔は……十四年ぶりに再会する初恋の相手アルブレヒトは、うっすらと笑みのようなものを浮かべた。それから、ナナは急激な眩暈に襲われて、ふっと意識が遠のいた。
少しのあいだ気絶していたらしい。ふと気がつくと、悪魔の姿が店内から消えていた。
失敗した紫の粉と毒薬のにおい。汚れた粉ふるい器で散らかり放題の調合台。軟膏作りの残骸をぼんやりと見つめて、ナナは立ち尽くしていた。
「……たまにはこんな夜もあるさ。元気出せ。俺がいるだろ」
セージはめずらしく慰めるように、白い頬をナナのブーツにそっと摺り寄せた。
「う……、セージ……っ」
ナナはうつむき、寝不足で腫れた目いっぱいに苦い味の涙を溜めた。ぽつぽつと胸もとに粒を落とす。わあん、と両手で顔を押さえて床板に崩れ落ちた。
「ぜんっぜん嬉しくないよおおおお!」
「んだとこのやろおおおおっ!」
ナナとセージの諍いは長くは続かなかった。散らかったままの床板にだらりと両手足を投げ出して寝ころがり、飛べない魔女とペルシャ猫は、気絶するように昏々と眠りについた。
最初のコメントを投稿しよう!