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『ヴァルプルギスの夜』から、ひと月
*
水撒きを終えたナナは、ハーブガーデンの白いベンチに腰掛けて、育ちざかりの草花を眺めた。薬屋で栽培している庭には、色鮮やかな新緑があふれている。季節は五月の終わり。雨季を前にした穏やかな季節だ。カーニバルから一ヶ月。ようやく種々のショックから抜けきった頃合だった。
ネネとノノはもう店にはいない。先月のカーニバルで出会った悪魔にそれぞれ一目ぼれされ、求婚を受け、婚約者の屋敷で花嫁修行の真っ最中だ。大方の予想通り、最後に店に残されたのは長子であり最も能力のない魔女、ナナだった。
「ねえセージ。よく考えれば、どんなに頑張ってカーニバルに行ったところで、アルブレヒト様には会えなかったのよね」
「ああ。あいつも空飛べないからな」
「運良く会えたとしても、彼はほかの人とお見合いするわけだし」
「それ以前に、ヘタレとはいえ魔王の息子だ。お前が選ばれる見込みは万にひとつもねえよ」
優雅に白い尻尾をベンチに丸めて、セージは意地悪い笑みを浮かべた。
「ほかを探すしかないか……わたしがこんな魔女だから、相手はもっと実力があって頼れるほうがいいなぁ」
真昼の庭木から透けてこぼれる光にまどろみ、ナナは夢見るように瞳を細めた。
「おい、現実逃避してる場合か。店はどうする。看板娘のネネとノノがいないせいで、売り上げが半分以下に落ち込んでるぜ」
「もういいよ、適当に弟子でも取って譲る」
「弟子に薬草のこと教えられんのかよ、お前が!」
「セージがいるじゃない」
「俺かよっ!」
カランカラン――と、店の扉の鐘が鳴った。ハーブガーデンから扉一枚でつながっている店に、客が来訪したようだ。セージが胴体を伸ばし、するりとナナの肩に飛び乗る。ナナは跳ねるようにベンチから立ち上がり、客を出迎えるために顔に笑みを貼り付けた。
「はーい。いらっしゃいま……せ……」
薬屋に戻ったナナは、足をぴたりと止めた。
忘れもしない赤毛と黒のロングコート。先日一騒ぎを起こした、外見だけは立派な悪魔が物静かに佇んでいた。長期旅行でもするような、大きなトランクを手に提げている。
「アルブレヒトさん?」
またもや黒い不穏なオーラを背中からまき散らして、彼は告白をはじめた。
「大急ぎで山に向かったものの、途中で飛行を誤って大木に衝突してしまい、見合いの席に間に合わなくてな……せっかく苦労して軟膏を作ったのに申し訳ない。あんたには、合わす顔がない……」
いや訪ねてきてるじゃん、どんなドジっ子だよ、と思いながらも、ナナは店主として満面の笑みを浮かべた。
「それは別にいいんですが……今日はどうしてここに?」
「ついに父に勘当され、村を彷徨っている。住み込みのアルバイトを転々としてきたが、厨房に入れば皿を割り、注文を取れば無愛想だと客に怒鳴られ、どこの店長からもすぐに解雇を言い渡され……もう行くところがなく、腹も減り、途方に暮れている」
肩にしがみついているセージが耳もとで「俺でもクビにする」とぼやいたので、ナナはぺこんと猫の鼻を叩いた。
「アルブレヒトさん、とりあえず落ち着きましょう。ハーブティーを淹れましょうか?」
「ああ、すまない。あの桃色の茶はうまかった」
「ほんと? ありがとう!」
お客にハーブティーを褒められたのは初めてで、ナナは飛び上がるほど喜んだ。いそいそとヤカンに水を汲んで火をつける。
ナナの肩に乗ったまま、セージが振り返って悪魔に尋ねた。
「おい。あんたの舌、大丈夫か?」
「問題ない。私は暗殺者の仕込んだ毒料理を食しても気づかないほど、強靭な舌と胃を持っている。唯一の特技だな」
「特技じゃねえし! 味覚崩壊してるだろ!」
「ねえセージ、アルブレヒトさんを弟子にしたらどうかな。行き場所なさそうだし」
「おい、ちょっと待て」
「それは本当か! 恩に着る、薬屋」
ナナは首だけで振り返り、アルブレヒトに微笑んだ。
「あたしはナナよ。このうるさい猫はセージ。よろしくね」
「使えねえやつ増やしてどーすんだー!」
セージはぱしぱしと三つ編みを叩きながら突っ込んできたが、ナナは気にしないで、ポットに適当な分量の茶葉を入れた。
小憎たらしい妹たちもいなくなれば寂しいし、人手も必要だ。ちょうどいいや、と気楽に思っていた。
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